アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリングを行う ヒューマン・ギルド の岩井俊憲です。
昨日は妻と一緒に区役所に赴き障害者のしおりをもらってきました。
医師の証明書を加えて提出し、障害者認定を申請するつもりです。
私はこれから先は、身体障害者として自分の身体の一部の制約はありながら生きていくことを決意しています。
夜は妻のサポートを得て包帯を解き、左手の洗浄、シャワー、手当てなどをしてもらいました。
私は左手の指先を1本1本見ました。
指全体の面積は右手の半分になっています。
親指は、完全に残りましたが、他の4本は、程度の差はあれ切断されています。
これが現実で、直視しながら生きていくこと覚悟を決めました。
さて、以下の文章はヒューマン・ギルドの5月号のニュースレターの巻頭言に書いて配信済みの文章です。
ブログにもその後の経過を加味して掲載させていただきます。
****************
こんなことを巻頭言に書くことについてためらいがありましたが、あえてオープンにいたします。
この巻頭言は、4月20日(土)に大きな節目になる「人生100年時代 元気に生きなきゃ、もったいない!!」のシンポジウムを終えて、そしてさらに22日(月)の入院の合間4月21日(日)に書いています。
私はここ1カ月以上、自分の左腕の壊死した指を抱え包帯を巻きながら生活をしてきました。
4月23日には数本の指先の切断手術をしました。
私は19日の晩に妻と共に仏壇の前で追悼式を行い、心の中でお別れをいたしました(4月20日付けブログ「小さな追悼式:数日後のお別れの前に」、 https://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20240420 ご参照のほど)。
そして23日には物理的なお別れをしました。
これは一種の体の一部の「小さな死」です。
ただ、私の心身の機能のうちで喪われるのは、たった2%かそれ以下で、98%以上は健全です。
ここで思いついたことが2つあります。
1つは、パラリンピックの創始者 ルードヴィッヒ・グットマン博士の「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉と、アルフレッド・アドラーの「補償」「創造力」のキーワードです。
喪われた2%と残された98%のどちらに注目するかで、私自身の身の処し方と今後の社会貢献が決まってきます。
本来ならば、死に至る、あるいは半身不随になってもおかしくなかったうえに、動脈に血栓が詰まってしまったのが、右手でもなく左手で済んだのは、奇跡中の奇跡だとも受け止められます。
2つめは、心理学でよく使われる死と再生です。
ここでの「死と再生」のフレーズは、実際の生と死ではなく「儀礼的、象徴的な死とそれに続く誕生/再生」 のことで、大きな出来事の前と後のことを通過儀礼として表現するのに用いられる比喩です。
私の心身機能の2%とは死別することになりますが、残りの98%は、「よりによって」の、他の人がなかなか体験できない事態に遭遇して、誕生/再生の物語として活かすことができます。
ここで結論に入ります。
先ほど私は「よりによって」と書きました。
これには意図的なものがあります。
「よりによって」は、『広辞苑』では「他に適当な選択が可能であるのに、良くない選択をして」「こともあろうに」として、「あなたみたいな人が、よりによってあんな男と結婚するなんて」というように否定的な使われ方が例示されています。
ところで皆さんは、「よりによって」の漢字混じりの表記をご存じですか?
何と「選りに選って」なのです。
ここで私は、大胆な意訳をします。
岩井流解釈では、前半の「選」は「自分で選んだ」、後半の「選」は「神仏が選んで与えてくれた」と解釈します。
私が直面してきたライフタスクに対して、もともと備わっていたライフスタイルが非建設的(時に破壊的)に働くようなことを自ら選んでいたことの警告として神仏が「こいつならきっと、こんな鉄槌を与えても、その意味を持ち前のアドラー心理学で把握して立ち直り、残りの生を世のため人のために活かすだろう」と私を選んで与えてくれた、と受け止めているからです。
皆さんがこれからの岩井俊憲の再生の物語と共に歩んでくださることを期待しています。
倍旧のご支援を何とぞよろしくお願いします。
※私のこの疾患からの学びについては、5月6日(月)21:00から配信のYouTubeアドラー心理学専門チャンネル「命拾い体験から学んだこと」でお伝えします。是非ご視聴ください。
↓
https://youtube.com/@user-pq7cw7zh9h
(クリックして勇気づけを)
<お目休めコーナー>4月の花(21)