今年の庭は、「花水木」の白さが、一際、輝いています
このところ、ざっとであるが、新聞に目を通すようになった。
確たる理念があってではなく、見始めたから見ているというだけの、何とも褒められたものではない。
が、心に留る記事に出合った。
下記に転載した記事に共感し、私が、何故、最近の日本のTV番組や新聞を見ないのかという心理状態を言い当てているようだと思った。
一部抜粋では、意味を正当に理解できないかも思い、全文を掲載させて貰う事にした。
2012年年5月5日 毎日新聞朝刊「余録」から・・・
言葉の持つ力。それは「傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力」だ・・・・。今年の本屋大賞を受賞した小説「舟を編む」(三浦しをん作、光文社刊)の一説である。辞書は言葉の海にこぎだす舟、その舟を編むのが辞書づくりだという比喩が美しい。
悲しいかな、私たちが現実に耳にする言葉は、辞書作りに一生をかける作中人物たちのように暖かくない。だれかとつながりあうための言葉ではなく、だれかを傷つけるための言葉がはんらんしている。
大型連休前の問責決議で、田中直紀防衛相の資質を問う国会論戦があった。子どもの世界のいじめにも似た集団での嘲笑に、眉をひそめる国民も多かったのではないか。その職にいかに不適格かを丁寧に説く方が、よほど言葉に重みがあったろうに。
この国の政治は議論がいつもかみあわない。与党も野党も自分たちの陣地を築き、壁を高くして、互いに言葉を投げつけている。壁の内側は仲間の世界だ。そこでしか通じない言葉を使っていれば、それはいつしか仲間だけを守り、敵を傷つける言葉になってしまう。
コミュニケーションとは本来、考えを異にする者同士が相手の意見に耳を傾け、それを尊重し、そして自らを高めていくとこである。人と人がつながりあうために、言葉は生まれたのだ。
連休明けには問責決議の後始末と消費税の国会審議、そして小沢一郎元代表の処分解除をめぐる民主党内の論議が始まる。言葉のつぶてがむなしく飛び交う政治の光景を、また見せつけられるのはごめんこうむりたい。(以上)
つくづく、そう思う。
日本の国も国民も、世界でも誇れる(と思うが)教育制度の中で、等しく(異論もあると思う)学んで来たのではないのか・・・「大人になりましょうよ」と言いたい。
TV番組を見ていて、こういう場面に出合うと耐えられない気持ちに落ち込んでしまう・・・で、チャンネルを切り替えるが、また、同じ場面にぶつかるのが常である。
穏やかで、やさしい言葉を使ってほしいというのではない。
上っ面を滑らすような、悲しくなるような、そんな言葉は聞きたくないだけであり、耳を傾け、信頼し理解できる言葉を聞きたいと思う。
要は、政治家やTVタレントの事ではなく、自分自身の事だと分かっている、如何。