○丸谷才一『ゴシップ的日本語論』文藝春秋 2004.5
わ~い、丸谷さんの新刊だ!!!
私は、20年来の丸谷才一ファンである。学生時代に出会って、当時、手に入るものは、エッセイから評論、小説、対談に連句集まで全て読んでしまった。その後は本屋で彼の新刊を見つけたら、小説だろうがエッセイだろうが、迷わずGETである。電車に乗るのも待ちきれなくて、駅のエレベータでページを開いてしまった。
とにかく読み終わる(長編の場合は少なくとも一段落する)までは、読みかけの本も録画済のビデオも一時棚上げである。まるで、本命の恋人から誘われると、仕事も習い事も友だちとの約束も全てキャンセルして駆けつける、情けないオンナみたいなものだ。しかたない、これも惚れた弱みである。
しかし、考えてみると、20年来、私にとってこんなにも変わらず魅力的な物書きは丸谷才一しかいないような気がする。一時期、夢中になった作家や評論家はいろいろいるが、私の興味が変わったり、向こうが変わってしまったりして、読まなくなってしまった人が多い。
それでも、さすがにこの数年、丸谷さんも年取ってきたなあ、と思うことはある。世相風俗をネタにしたエッセイは、以前ほど切れがなくなってきた。しかし、歴史や文学や哲学など、かなり学術的なテーマを、楽しいゴシップを交えて分かりやすく語る「芸」は衰えていない。
若い頃、折口信夫に熱中して、書店で「折口学入門」という手書きのビラを見て飛び込んだら「哲学入門」だった、なんて、まるで「笑っていいとも」のタモリだよー。
本書でいちばん面白く読んだのは、昨年話題になった丸谷さんの小説『輝く日の宮』について、瀬戸内寂聴さんと語った対談である。著者が自作を語るとべたべたした感じになりがちだが、丸谷さんの場合、そうでないところがいい。また、瀬戸内さんも「つくる」ことに意識的な小説家であること、小説を構成するひとつひとつの言葉に非常に敏感であることが分かる。
さて、丸谷さんの次の新刊はいつになるんだろう...こうしてまた、私の「耐えて待つ」生活が始まるのだ。
わ~い、丸谷さんの新刊だ!!!
私は、20年来の丸谷才一ファンである。学生時代に出会って、当時、手に入るものは、エッセイから評論、小説、対談に連句集まで全て読んでしまった。その後は本屋で彼の新刊を見つけたら、小説だろうがエッセイだろうが、迷わずGETである。電車に乗るのも待ちきれなくて、駅のエレベータでページを開いてしまった。
とにかく読み終わる(長編の場合は少なくとも一段落する)までは、読みかけの本も録画済のビデオも一時棚上げである。まるで、本命の恋人から誘われると、仕事も習い事も友だちとの約束も全てキャンセルして駆けつける、情けないオンナみたいなものだ。しかたない、これも惚れた弱みである。
しかし、考えてみると、20年来、私にとってこんなにも変わらず魅力的な物書きは丸谷才一しかいないような気がする。一時期、夢中になった作家や評論家はいろいろいるが、私の興味が変わったり、向こうが変わってしまったりして、読まなくなってしまった人が多い。
それでも、さすがにこの数年、丸谷さんも年取ってきたなあ、と思うことはある。世相風俗をネタにしたエッセイは、以前ほど切れがなくなってきた。しかし、歴史や文学や哲学など、かなり学術的なテーマを、楽しいゴシップを交えて分かりやすく語る「芸」は衰えていない。
若い頃、折口信夫に熱中して、書店で「折口学入門」という手書きのビラを見て飛び込んだら「哲学入門」だった、なんて、まるで「笑っていいとも」のタモリだよー。
本書でいちばん面白く読んだのは、昨年話題になった丸谷さんの小説『輝く日の宮』について、瀬戸内寂聴さんと語った対談である。著者が自作を語るとべたべたした感じになりがちだが、丸谷さんの場合、そうでないところがいい。また、瀬戸内さんも「つくる」ことに意識的な小説家であること、小説を構成するひとつひとつの言葉に非常に敏感であることが分かる。
さて、丸谷さんの次の新刊はいつになるんだろう...こうしてまた、私の「耐えて待つ」生活が始まるのだ。