見もの・読みもの日記

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親密なメディア/大衆新聞がつくる明治の「日本」 (山田俊治)

2007-06-22 22:50:46 | 読んだもの(書籍)
○山田俊治『大衆新聞がつくる明治の「日本」』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2002.10

 私は、新聞を読む習慣を、20年以上も前に失くしてしまった。いま40代後半の私が、同世代の人々にそう打ち明けると、えっと呆れた顔をされる。そのかわり、日本における新聞メディアの草創期には非常に興味があって、ときどき、関連書を読みたくなる。

 日本における新聞の発行は、幕末の外国人居留地で始まり、明治に入ると、政治的な言論を展開するメディアとして、一定の階級層に認知されるようになった。従来、新聞の発達史は、これら知識人向けの高級紙=大(おお)新聞の消長を通じて記述されてきた。

 しかし、一方には社説を掲げず、雑報を主とする、多くの小(こ)新聞があった。政治的に無関心で未熟な民衆が、体制の変革と新しい国家像を受け入れるにあたって、決定的に重要な役割を果たしたのが、小新聞である。そして、彼らが学び取った「マスメディアを通じて世界を認知する」という所為は、いまの私たちの原型と言ってもいいのではないか。このような問題意識のもと、本書は、実際に代表的な大衆新聞『読売新聞』の紙面を読んでいく。

 まず、新聞の文体にびっくりした。記者(編集者)と読者の距離が、信じられないほど近いのだ。記者は「皆さんに一言申置ます」と語りかけ、読者(投稿者)は記者に向かって「あにいハゑらいよ」と応じる。「あにい」(!)というのは記者のことだ。ええ~。TVキャスターならともかく、新聞記者に、こういう親しみを感じた経験は、私にはない。そもそも特定の個人が新聞記事を書いていると想像することが少ない。それに対して、この親密さは、なんだかネットでのコミュニケーションを思わせる。有名人のブログに、コメントを書き込む感覚に近いのではないか。

 大衆新聞は、虚実を問わず、センセーショナルな珍話奇説を取り上げ、読者は、道徳的懲戒という名目のもと、他人の私生活を覗き見て、スキャンダルを貪欲に消費した。その結果、新聞の種になることを恐れる気持ちが大衆に共有され、よく言えば、社会規範の内面化が進行したが、一方では、スキャンダルを悪用して、他人を陥れる事態も生じた。このへんも、いまのネットの状況によく似ていると思った。

 新しいメディアって、いつも、こんなものなのか? 無法で親密なコミュニケーションから始まって、影響力が増すに連れ、国家権力の統制下に入って、毒性は薄まるけれど、顔の見えない”マスメディア”に退行していく。 いまの新聞は、未来のインターネットの姿なのか、否か。そんなことを考えさせられた。
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