見もの・読みもの日記

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中国人の論理/街場の中国論(内田樹)

2007-06-23 23:49:35 | 読んだもの(書籍)
○内田樹『街場の中国論』 ミシマ社 2007.6

 前作『街場のアメリカ論』を見たときも、タイトルに不思議な印象を持った。「街場(まちば)」というのは、字を見れば意味は分かるが、私はあまり使ったことのない言葉だったからだ。本書の「まえがき」によれば、「街場のふつうの人だったら、知っていそうなこと」に基づいて、中国(アメリカ)を論じよう、という意図だという。どれほどインサイダー情報に通じていても、推論する人自身に主観的なバイアスがかかっていれば、情報評価を誤る。むろん、誰でも主観的なバイアスは避けられないものだが、大切なのは、それを「勘定に入れる」習慣を持つことだ。

 私は、著者の中国論におおむね賛成する。特に、現代中国の外交政策に「中華思想」の伝統を読み取る段は面白かった。中華思想は、中心から辺境に向かって、段階的に「王化」が及ぶと考える思想である。そのため、中国人(漢民族)には、国境線を明確化すること自体に強いアレルギーがある。台湾にしろ、尖閣諸島にしろ、中国はそれを完全に自国の内側に領有したいのではなく、当分(というのは、数百年のスパンで)曖昧な「棚上げ」の状態にしておきたいのだ。

 これ、『属国と自主のあいだ』や『清帝国とチベット問題』を読んできた私には、すごくよく分かる。でも、分かるかなあ、国と国との間には国境線があるのが当然だと思っている普通の日本人に。ついでにいうと、中国が日本の教科書や靖国問題に発言して、「内政干渉だ」と日本のナショナリストを憤激させるのも、「内」と「外」の感覚が違うせいではないかと思う。

 隣人としては困ったものだが、伝統は簡単に捨て去れるものではない。かくいう日本も、「華夷秩序の端っこ」という、長年の立ち位置が身になじんでいればこそ、戦後は、アメリカを「中華」とする新たな華夷秩序に安住していられるのだ、という著者の指摘には苦笑した。「突き詰めれば『中華に媚びる』のが日本の伝統だからです」というのは、これもナショナリストを憤激させそうな物言いだが、その伝統的な立ち位置ゆえに、松岡正剛さんのいう『日本という方法』(=異質な文化を編集する)もあり得るのだと思う。

 もちろん、中国の内政が実際に「王化」や「徳治」というタームの通りに進行しているわけではない。その点に関して、著者は冷めた認識を持っている。そもそも「日本を統治できる政治家なら同じ技量で中国も統治できる」というのは、日本の政治家、評論家、一般大衆が抱きがちな誤解である。彼我のリスク・スケールは桁違いに大きい。13億人を統治するために必要なマヌーヴァー(攻略)は、はるかに狡猾で非情なものにならざるを得ない。

 ここは「中華思想」の段より、さらに分かりにくいところだと思う。著者自身、毛沢東や周恩来の内面の「ロジック」をつかみ切れていないのだ。この人たちは、ついに自分たちの複雑な胸の内を明かさず「墓場まで持って行った」。表面世界に残されたのは、単純明快なスローガンだけ。しかし、その複雑怪奇な二重構造が、近代中国政治史の魅力でもある...と私は思っている。
コメント
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