見もの・読みもの日記

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団塊の繰り言/ウェブ社会をどう生きるか(西垣通)

2007-06-06 00:13:11 | 読んだもの(書籍)
○西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』(岩波新書) 岩波書店 2007.5

 一読して「団塊世代の繰り言」だなあ、と思った。ただし、私は本書を否定しているわけではない。たとえ相手の耳に届かない繰り言であっても、言ってやったほうがいいこともある。

 西垣先生の本は、1990年代の後半、『デジタル・ナルシス』(岩波書店 1997)『思想としてのパソコン』(NTT出版 1997)など何冊かを読んだ。パソコンやインターネットが、一部の情報オタクの道具から普通の生活アイテムに変貌し始めた頃である。IT技術の活用によって、今すぐバラ色の未来がやってくるかの如き、浮き足立った社会風潮に対して、冷や水を浴びせるようなところがあった。

 本書のスタンスも、基本的には変わっていない。いま、グーグル、アマゾンに代表される「ウェブ2.0」が、民主的手続きを推し進め、集合知を作り上げるという主張がある。これに対して著者は、「ウェブ礼讃論が安易に既存の専門知を排斥し、あらたなウェブ集合知を主張するあまり、急速に知の堕落が生じつつあるのではないか」という懸念を表明する。

 学問の世界における査読システムも、民主政治の手続きも、面倒で不完全であるが、模索を重ねて確立されてきたものだ。それらを放棄し、コンピュータのアルゴリズムを手放しに信頼していいのだろうか? この異議申し立ての論理は、森健さんの『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』や『グーグル・アマゾン化する社会』にも通じており、特に新しいものではない。

 だが、著者の発言には、20年来、情報科学にかかわってきた者としての重みがある(そこが森健さんの著書とは一味違う読みどころである)。コンピュータ(検索エンジン)が人間の言葉を理解し、求めるものを探し出し、秩序を作り出す――こうした言葉を聞くと、著者は「一種の既視感」に襲われるという。1980年代、ハードウェアの機能向上を引き金に、欧米と日本で「人工知能ブーム」が起きた。人工知能研究者たちは、人間のような知能をもつコンピュータを制作するという野望に向かって「突進」し、人工知能コンピュータの可能性をめぐって、はげしい哲学的論争も行われた。

 しかし、結局、実用に供されるほどの人工知能はまだできていない。それは、人間の言語が、身体をもって周囲の環境と相互干渉する体験の中で生み出されるものであるからだ。著者は、検索エンジンが人間のような知能を持つことは、少なくともここ10年くらいは「あり得ない」と結論し、「ウェブ2.0関連の研究者は若い世代が多いので、20年前の挫折の深刻さを知らないのです」と付け加える。この含蓄、味わうべきであろう。

 また著者は、西洋人が人工知能を作りたがるのは一神教の呪縛のためではないか、という。確かにGoogleのミッションにはそんなところがあるなあ。それなら、多神教文化に生きる日本人は、何か全く違ったアプローチで、検索エンジンや人工知能を作れないものだろうか。
コメント
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