○岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』(岩波新書:シリーズ日本近現代史10) 岩波書店 2010.2
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」は、2006年11月刊行の『幕末・維新』から、2009年1月刊行の『ポスト戦後社会』まで、第一線の(いま旬の、と言いたい)研究者が近現代日本の通史を執筆したものだ。本書は、その最終巻に当たり、カーテンコールよろしく9人の執筆者が再登場して、「それぞれの時代の性格をとらえる際の根本的な問題を『問い』のかたちで掲げ、それに答えて」いる。
各人の持ち紙数は、わずか30ページ弱だが、どの章を読んでも、目からウロコの落ちる、新鮮な衝撃が待っている。たとえば、第1巻の著者、井上勝生氏は、無為無策な幕府が、開国に際して不平等な条約を押しつけられ、それに反対する天皇と朝廷が登場するという、よく知られた幕末・維新の「物語」に対して、幕府の役人は、けっこう頑張ったことを評価する。外国人の旅行権の制限は、外国商人の産地買い付け目的の侵入を防止し、国内市場の保護に役立ったという。旅行くらい自由にさせてあげればいいのに、なんて思ってしまうのは、当時の日本人を、外国人アレルギーにとらわれた「半未開民族」と見なす先入観(欧米人側の視線)に毒された結果なのだ。
第2巻の著者、牧原憲夫氏は、明治10年代=自由民権運動の時代の捉えかたについて、政府と民権派の二極構造ではなく、政府-民権派(国家を主体的に担おうとする知識人、村落指導者)-民衆(国家の客分として仁政を求める人々)の三極構造を想定すべきだと提言する。この三極構造図は、現代の日本にも適用できそうな気がする。
成田龍一氏は、大正デモクラシーの中に「モダニズムとナショナリズム、外来性と土着性、開放感と閉塞感というような二重性を有し、二つの極を持つ思想が同居」していたことを、当時流行していた大衆文学(鞍馬天狗、吉屋信子、雑誌「キング」や「新青年」等)を素材に論じている。こういう、ゆるいマスカルチャーと大文字の政治思想状況を横断する研究視点は大好きだ。
かと思えば、1930年代の戦争に焦点をあてた加藤陽子氏は、侵略戦争は国際共同体に対する犯罪であり、ゆえに大国アメリカは「中立」を経済制裁の手段として行使できる、という考え方(これも現代と密接につながる)が生まれてくる過程を、骨太の筆法で描き出す。こんな具合で、多人数のアンソロジーでありながら、とにかく無駄がない。おそろしく贅沢な編集である。
終章には、再度、成田龍一氏が登場し、歴史学研究における本シリーズの位置を論じている。「国家」の歴史を記述した戦前の歴史学に対して、戦後歴史学は「国民」の歴史を志した(民衆史もそのバリエーションのひとつ)。しかし、21世紀の歴史学は、「国民」や「民衆」の意味を問い、通史の意味を問い直そうとしている。その結果(以下は私見)、かつてはひとつの価値判断のもとにあった事象が、さまざまな光源に照らされて、複雑な光と影を見せるようになってきたと思う。こういうややこしい歴史叙述は、おとなの教養にはうってつけだが、中高生などの初学者向けに整理されていくには、まだ少し時間がかかりそうな気がする。なんとか空中分解しない程度に、現代歴史学のスタンダードがつくられていくことを望みたいと思う。

各人の持ち紙数は、わずか30ページ弱だが、どの章を読んでも、目からウロコの落ちる、新鮮な衝撃が待っている。たとえば、第1巻の著者、井上勝生氏は、無為無策な幕府が、開国に際して不平等な条約を押しつけられ、それに反対する天皇と朝廷が登場するという、よく知られた幕末・維新の「物語」に対して、幕府の役人は、けっこう頑張ったことを評価する。外国人の旅行権の制限は、外国商人の産地買い付け目的の侵入を防止し、国内市場の保護に役立ったという。旅行くらい自由にさせてあげればいいのに、なんて思ってしまうのは、当時の日本人を、外国人アレルギーにとらわれた「半未開民族」と見なす先入観(欧米人側の視線)に毒された結果なのだ。
第2巻の著者、牧原憲夫氏は、明治10年代=自由民権運動の時代の捉えかたについて、政府と民権派の二極構造ではなく、政府-民権派(国家を主体的に担おうとする知識人、村落指導者)-民衆(国家の客分として仁政を求める人々)の三極構造を想定すべきだと提言する。この三極構造図は、現代の日本にも適用できそうな気がする。
成田龍一氏は、大正デモクラシーの中に「モダニズムとナショナリズム、外来性と土着性、開放感と閉塞感というような二重性を有し、二つの極を持つ思想が同居」していたことを、当時流行していた大衆文学(鞍馬天狗、吉屋信子、雑誌「キング」や「新青年」等)を素材に論じている。こういう、ゆるいマスカルチャーと大文字の政治思想状況を横断する研究視点は大好きだ。
かと思えば、1930年代の戦争に焦点をあてた加藤陽子氏は、侵略戦争は国際共同体に対する犯罪であり、ゆえに大国アメリカは「中立」を経済制裁の手段として行使できる、という考え方(これも現代と密接につながる)が生まれてくる過程を、骨太の筆法で描き出す。こんな具合で、多人数のアンソロジーでありながら、とにかく無駄がない。おそろしく贅沢な編集である。
終章には、再度、成田龍一氏が登場し、歴史学研究における本シリーズの位置を論じている。「国家」の歴史を記述した戦前の歴史学に対して、戦後歴史学は「国民」の歴史を志した(民衆史もそのバリエーションのひとつ)。しかし、21世紀の歴史学は、「国民」や「民衆」の意味を問い、通史の意味を問い直そうとしている。その結果(以下は私見)、かつてはひとつの価値判断のもとにあった事象が、さまざまな光源に照らされて、複雑な光と影を見せるようになってきたと思う。こういうややこしい歴史叙述は、おとなの教養にはうってつけだが、中高生などの初学者向けに整理されていくには、まだ少し時間がかかりそうな気がする。なんとか空中分解しない程度に、現代歴史学のスタンダードがつくられていくことを望みたいと思う。