○山口誠『ニッポンの海外旅行:若者と観光メディアの50年史』(ちくま新書) 筑摩書房 2010.7
「最近の若者は海外旅行に行かなくなった」といわれるが、本書によれば、20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年であり、当時4人に1人の割合で海外を旅行していた20代の若者が、10年あまりで半減しているという。1996年に何があったか――みなさん、覚えていますかね。私は本書の第5章を読むまで思い出せなかった。まずは、日本人にとっての「海外旅行のかたち」をなぞっていこう。
戦前まで、日本人にとって海外は、視察と留学の地、あるいは労働(移民)の地であり、観光のための海外旅行は稀少だった。戦後も、50年代末の海外渡航は、学術研究を目的とした探検隊や調査隊に限られた。60年代、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫、『何でも見てやろう』の小田実、『青年は荒野をめざす』の五木寛之など、先鋭的な若者の探検記があらわれる。これに刺激された若者たちが、海外を「歩く旅」を始めるのが70年代である。
需要のあるところにビジネスが生まれ、学生向けの低価格の航空券を販売するさまざまな仕組みが生み出された。大学生協連が71年から、「自由交歓旅行」を謳い文句にした割引航空券の販売を始めたのもそのひとつ。思えば、私が80年代初頭に始めて行った海外旅行(中国ツアー)も大学生協の商品だった。そして、「お金がない、英語も、現地の言葉もしゃべれない人が、それでもどうやって旅をするか」を主眼にしたガイドブック「地球の歩き方」が登場する。
80年代には、秀インターナショナル(現HIS)、マップ・インターナショナル、四季の旅社など、新興の旅行会社が続々と起業し、学生援護会の雑誌「BLANCA」、リクルート社の雑誌「ab-road」が出現する。懐かしい~。私の学生時代は、まさにこの80年代に重なるのだが、最初の海外旅行から2度目まで、10年近い空白期間を過ごすのもこの時代だ。80年代の画期となるのは、沢木耕太郎の「深夜特急」(84年より新聞連載)。著者は、70年代の小田実らのヨーロッパ旅行記が、見聞を主とする「アクションの旅」であったのに対し、沢木のアジア旅行記を、自分の心の動きを主とする「リアクションの旅」だったと説明している。沢木の影響下に「自分探し」を特徴とする第二世代のバックパッカーたちが出現する一方、超円高時代の到来とともに、全く異なる旅のかたちも登場した。短期間で効率よく都市型消費を楽しむスケルトンツアーである。
90年代、バックパッカーには第三の世代が現れる。彼らの旅は、「日本=日常」からの逃避行ではなく、むしろ「われわれ日本人」という集団アイデンティティを確認する行為だった。そして、著者の言う「1996年の爆発と到達点」とは、無論、猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。彼らが旅の果てに手に入れたのは「理不尽な困難を素直に受け入れ、ときには感謝を口にするような、そして日本に帰国しても『やっていける』ような、素直で謙虚な『日本人の好青年』の姿だった」という分析は興味深い。
これ以後、若者の海外旅行離れが進んだのは、バブル崩壊、国際事件の続発などの悪条件よりも、海外旅行という商品そのものが、魅力を失ってしまったことが大きい。バックパッカーの貧乏旅行はひとつの極点に達し、スケルトンツアーは、行き先も旅のかたちも固定化して、1、2回行けば飽きるものになってしまった。そこで著者は、「買い・食い」志向からの脱却と、旅先の文化や歴史に触れる「歩く」旅の再考を促して本書を終える。
著者の結論には何の異論もない。私は、ツアーでも個人旅行でも出張でさえ、知らない街に行けば、寸暇を惜しんで外に飛び出し、ホテルの周りを30分でも歩きまわってくることが好きなので…。こういう私の性癖は、70~80年代にメディアを通じて刷り込まれた「海外旅行=歩く旅」のイメージから来ているのかもしれない、と思った。そうすると、スケルトンツアー全盛以降に成人した若者たちが、「歩く」海外旅行を再発見する日は、果たして来るかなあ。心もとない。
「最近の若者は海外旅行に行かなくなった」といわれるが、本書によれば、20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年であり、当時4人に1人の割合で海外を旅行していた20代の若者が、10年あまりで半減しているという。1996年に何があったか――みなさん、覚えていますかね。私は本書の第5章を読むまで思い出せなかった。まずは、日本人にとっての「海外旅行のかたち」をなぞっていこう。
戦前まで、日本人にとって海外は、視察と留学の地、あるいは労働(移民)の地であり、観光のための海外旅行は稀少だった。戦後も、50年代末の海外渡航は、学術研究を目的とした探検隊や調査隊に限られた。60年代、『どくとるマンボウ航海記』の北杜夫、『何でも見てやろう』の小田実、『青年は荒野をめざす』の五木寛之など、先鋭的な若者の探検記があらわれる。これに刺激された若者たちが、海外を「歩く旅」を始めるのが70年代である。
需要のあるところにビジネスが生まれ、学生向けの低価格の航空券を販売するさまざまな仕組みが生み出された。大学生協連が71年から、「自由交歓旅行」を謳い文句にした割引航空券の販売を始めたのもそのひとつ。思えば、私が80年代初頭に始めて行った海外旅行(中国ツアー)も大学生協の商品だった。そして、「お金がない、英語も、現地の言葉もしゃべれない人が、それでもどうやって旅をするか」を主眼にしたガイドブック「地球の歩き方」が登場する。
80年代には、秀インターナショナル(現HIS)、マップ・インターナショナル、四季の旅社など、新興の旅行会社が続々と起業し、学生援護会の雑誌「BLANCA」、リクルート社の雑誌「ab-road」が出現する。懐かしい~。私の学生時代は、まさにこの80年代に重なるのだが、最初の海外旅行から2度目まで、10年近い空白期間を過ごすのもこの時代だ。80年代の画期となるのは、沢木耕太郎の「深夜特急」(84年より新聞連載)。著者は、70年代の小田実らのヨーロッパ旅行記が、見聞を主とする「アクションの旅」であったのに対し、沢木のアジア旅行記を、自分の心の動きを主とする「リアクションの旅」だったと説明している。沢木の影響下に「自分探し」を特徴とする第二世代のバックパッカーたちが出現する一方、超円高時代の到来とともに、全く異なる旅のかたちも登場した。短期間で効率よく都市型消費を楽しむスケルトンツアーである。
90年代、バックパッカーには第三の世代が現れる。彼らの旅は、「日本=日常」からの逃避行ではなく、むしろ「われわれ日本人」という集団アイデンティティを確認する行為だった。そして、著者の言う「1996年の爆発と到達点」とは、無論、猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。彼らが旅の果てに手に入れたのは「理不尽な困難を素直に受け入れ、ときには感謝を口にするような、そして日本に帰国しても『やっていける』ような、素直で謙虚な『日本人の好青年』の姿だった」という分析は興味深い。
これ以後、若者の海外旅行離れが進んだのは、バブル崩壊、国際事件の続発などの悪条件よりも、海外旅行という商品そのものが、魅力を失ってしまったことが大きい。バックパッカーの貧乏旅行はひとつの極点に達し、スケルトンツアーは、行き先も旅のかたちも固定化して、1、2回行けば飽きるものになってしまった。そこで著者は、「買い・食い」志向からの脱却と、旅先の文化や歴史に触れる「歩く」旅の再考を促して本書を終える。
著者の結論には何の異論もない。私は、ツアーでも個人旅行でも出張でさえ、知らない街に行けば、寸暇を惜しんで外に飛び出し、ホテルの周りを30分でも歩きまわってくることが好きなので…。こういう私の性癖は、70~80年代にメディアを通じて刷り込まれた「海外旅行=歩く旅」のイメージから来ているのかもしれない、と思った。そうすると、スケルトンツアー全盛以降に成人した若者たちが、「歩く」海外旅行を再発見する日は、果たして来るかなあ。心もとない。