○ジュンク堂書店新宿店トークセッション 田仲康博×吉見俊哉『今、沖縄問題で問われていること』(2010年7月16日)
田仲康博氏の『風景の裂け目―沖縄、占領の今』(せりか書房)刊行を記念したイベント。対談は、両氏が全く異なる個人史を語りあうことから始まった。1954年、沖縄生まれの田仲氏は、父は米軍基地で働いていて、アメリカの豊かな物資をフェンスの内側から持ってきてくれる存在だったこと、母は復帰運動に関わっていたこと、ウィスコンシン大学に留学し、沖縄で身近に見ていたアメリカが現実のアメリカと決定的に異なること、「アメリカの日常生活には基地がない」ことに衝撃を受けたと語る。
続いて、1957年、東京山の手生まれの吉見俊哉氏は、東京オリンピック(1964年)開催に向けて、町が変貌していくときに子ども時代を過ごし、工事現場が遊び場だったと語る。1970年の大坂万博を体験し(田仲さんも沖縄から修学旅行で行ったという)、演劇から盛り場研究を志し、渋谷の円山町の下宿(ラブホテルのネオンが見える中)で修士論文を書いていたとか…。これまで、完成に至らなかった研究がいくつもあるんだけど、実は90年前後に「日本の中のアメリカ」である東京ディズニーランドのことを考えていて、当時流行っていたシミュラークルなどの概念を使って書いていたんだけど(えー大塚英志みたいだ)、待てよ、「日本の中のアメリカ」を考えるなら、「消費文化」の象徴である東京ディズニーランドと同時に、「暴力としてのアメリカ」を表象する米軍基地、そして沖縄の問題に触れなければいけないんじゃないか、と思っていた、とおっしゃる。これを受けた田仲氏から、沖縄のアメリカンビレッジ(アメリカの雰囲気を売り物にしたアミューズメント施設)には、東京ディズニーランド(の構想に関わった人)が入っている、という話があった。
それから『親米と反米』『ポスト戦後社会』『天皇とアメリカ』の著者として、日本近代史におけるアメリカの影を追って来た吉見氏から、東京の最もオシャレな街、六本木と原宿が、戦前は「陸軍の街」であり、占領下では「米軍の街」だったことが紹介された。つまり、東京(あるいは神奈川)と沖縄は、1950年代前半までは「米軍」というリアリティを共有していた。ところが、50年代後半に「本土」と「沖縄」は切り分けられた(ああ、やっぱり50年代後半がカギなんだな、と思った。→『戦後日本スタディーズ(1)』紀伊国屋書店、2009)。決定的だったのが60年安保で、反米、反基地闘争として立ち上がったものが、反「岸」闘争へと、アメリカの都合のいいようにすり替えられたのではないか。そうなんだよなあ、全共闘運動はやたらと回顧されているのに、安保闘争について、みんな口をつぐんでいるのは何故?と私も思う。
吉見先生、田仲さんは、もともと「カルチュラル・タイフーン」という”批判的文化研究”の同志(?)でもあるわけだが、この日、話題にのぼっていたのは、グローバル・ミリタリー・ベース・プロジェクトみたいな研究をやりたい!という提案。もちろん、それは”批判的”な視点によるが、米軍基地が生み出した文化を、全てあってならないもの、否定すべきものと見るのではなくて、料理やファッションやエンターティメントの興味深いグローバリゼーションを解明しようというもの。吉見先生が、まずお金取ってこなくちゃ、と小声で付け加えていたのが、本気らしくて可笑しかった。大学の先生も大変なのである。
最後に吉見先生は、テッサ・モーリス・スズキさんと考えた「時代の変わり目」の話をされて、第一が1890~1900年代、日清・日露戦争を通じて、中華秩序から日本帝国を中心とする秩序への転換、第二が1945~60年、アメリカ中心への転換、そして90年代から、東アジアは新しい時代に向かいつつあるが、その姿はまだ見えていない、とおっしゃっていた。と言いつつも、吉見先生の頭の中には、ソウル~中国沿岸部~上海を中心とする東アジアが見えているように思う。そうすると、沖縄はその「へそ」に位置し、東京は辺境に追いやられるわけだが、本当にそんな近未来がくるのか? 吉見先生の高揚感に比べて、沖縄人・田仲さんの反応は冷淡な感じがした。そんな未来予想は、これまで何度も聞いてきた、みたいな。
東京(日本)は、やっぱり辺境化していくのかなあ。世界に興味をもたない日本の若者たちを見ていると、そんな気もするが、逆にアジアの各国から見ると、まだまだ東京は、彼らを引き付ける魅力を持っているようにも思う。
と、尽きない話題で、あっという間の2時間。閉店時間が迫っていたので、著者サインタイムはなかったけど、田仲康博氏の『風景の裂け目』を買って帰りました。必ず読むので、紹介は読後に。この日、遅い夕食は、同行の友人と沖縄料理で。
田仲康博氏の『風景の裂け目―沖縄、占領の今』(せりか書房)刊行を記念したイベント。対談は、両氏が全く異なる個人史を語りあうことから始まった。1954年、沖縄生まれの田仲氏は、父は米軍基地で働いていて、アメリカの豊かな物資をフェンスの内側から持ってきてくれる存在だったこと、母は復帰運動に関わっていたこと、ウィスコンシン大学に留学し、沖縄で身近に見ていたアメリカが現実のアメリカと決定的に異なること、「アメリカの日常生活には基地がない」ことに衝撃を受けたと語る。
続いて、1957年、東京山の手生まれの吉見俊哉氏は、東京オリンピック(1964年)開催に向けて、町が変貌していくときに子ども時代を過ごし、工事現場が遊び場だったと語る。1970年の大坂万博を体験し(田仲さんも沖縄から修学旅行で行ったという)、演劇から盛り場研究を志し、渋谷の円山町の下宿(ラブホテルのネオンが見える中)で修士論文を書いていたとか…。これまで、完成に至らなかった研究がいくつもあるんだけど、実は90年前後に「日本の中のアメリカ」である東京ディズニーランドのことを考えていて、当時流行っていたシミュラークルなどの概念を使って書いていたんだけど(えー大塚英志みたいだ)、待てよ、「日本の中のアメリカ」を考えるなら、「消費文化」の象徴である東京ディズニーランドと同時に、「暴力としてのアメリカ」を表象する米軍基地、そして沖縄の問題に触れなければいけないんじゃないか、と思っていた、とおっしゃる。これを受けた田仲氏から、沖縄のアメリカンビレッジ(アメリカの雰囲気を売り物にしたアミューズメント施設)には、東京ディズニーランド(の構想に関わった人)が入っている、という話があった。
それから『親米と反米』『ポスト戦後社会』『天皇とアメリカ』の著者として、日本近代史におけるアメリカの影を追って来た吉見氏から、東京の最もオシャレな街、六本木と原宿が、戦前は「陸軍の街」であり、占領下では「米軍の街」だったことが紹介された。つまり、東京(あるいは神奈川)と沖縄は、1950年代前半までは「米軍」というリアリティを共有していた。ところが、50年代後半に「本土」と「沖縄」は切り分けられた(ああ、やっぱり50年代後半がカギなんだな、と思った。→『戦後日本スタディーズ(1)』紀伊国屋書店、2009)。決定的だったのが60年安保で、反米、反基地闘争として立ち上がったものが、反「岸」闘争へと、アメリカの都合のいいようにすり替えられたのではないか。そうなんだよなあ、全共闘運動はやたらと回顧されているのに、安保闘争について、みんな口をつぐんでいるのは何故?と私も思う。
吉見先生、田仲さんは、もともと「カルチュラル・タイフーン」という”批判的文化研究”の同志(?)でもあるわけだが、この日、話題にのぼっていたのは、グローバル・ミリタリー・ベース・プロジェクトみたいな研究をやりたい!という提案。もちろん、それは”批判的”な視点によるが、米軍基地が生み出した文化を、全てあってならないもの、否定すべきものと見るのではなくて、料理やファッションやエンターティメントの興味深いグローバリゼーションを解明しようというもの。吉見先生が、まずお金取ってこなくちゃ、と小声で付け加えていたのが、本気らしくて可笑しかった。大学の先生も大変なのである。
最後に吉見先生は、テッサ・モーリス・スズキさんと考えた「時代の変わり目」の話をされて、第一が1890~1900年代、日清・日露戦争を通じて、中華秩序から日本帝国を中心とする秩序への転換、第二が1945~60年、アメリカ中心への転換、そして90年代から、東アジアは新しい時代に向かいつつあるが、その姿はまだ見えていない、とおっしゃっていた。と言いつつも、吉見先生の頭の中には、ソウル~中国沿岸部~上海を中心とする東アジアが見えているように思う。そうすると、沖縄はその「へそ」に位置し、東京は辺境に追いやられるわけだが、本当にそんな近未来がくるのか? 吉見先生の高揚感に比べて、沖縄人・田仲さんの反応は冷淡な感じがした。そんな未来予想は、これまで何度も聞いてきた、みたいな。
東京(日本)は、やっぱり辺境化していくのかなあ。世界に興味をもたない日本の若者たちを見ていると、そんな気もするが、逆にアジアの各国から見ると、まだまだ東京は、彼らを引き付ける魅力を持っているようにも思う。
と、尽きない話題で、あっという間の2時間。閉店時間が迫っていたので、著者サインタイムはなかったけど、田仲康博氏の『風景の裂け目』を買って帰りました。必ず読むので、紹介は読後に。この日、遅い夕食は、同行の友人と沖縄料理で。