○水田紀久、野口隆、有坂道子編著『完本蒹葭堂日記』(木村蒹葭堂全集;別巻) 藝華書院 2009.5
まず、書誌来歴から確認しよう。近世大阪の知の巨人、木村蒹葭堂(1736-1802)が残した二十余年分の日記には、4万人(延べ9万人)の来訪者が記されているという。大阪市立図書館の羽間文庫本(24年間18年分)を底本とする『蒹葭堂日記 翻刻編』(水田紀久編集)が、索引つきで蒹葭堂日記刊行会(中尾松泉堂書店)から刊行されたのが、1972(昭和47)年。10年後、花月菴本2年分2冊が発見され、複製のかたちで、同刊行会から追加刊行されている。
これら個別に公刊された旧本を時系列に整え、誤りは細大となく訂正して完本『蒹葭堂日記』と銘打ち、出版という「盛挙」に漕ぎ着けた――そのように冒頭に水田紀久氏自ら記されているのが、2009年、藝華書院より刊行の本書である。さらに、中尾堅一郎氏(「旧版発行に関わった者」と自己紹介されている)の「添え書」によれば、「このたび、東都で旗揚げなさいました藝華書院が、その処女出版物に弊社の代表的刊行物(略)『蒹葭堂日記』をもう一度、と白羽の矢をお立てになりましたことは」「まさに青天の霹靂」しかし「本音を申せば」「身の程を弁えぬ無謀蛮勇の挙とも思えたのでございます」云々。そうだろうなあ。何せ、1冊でお値段40,000円(+税)である。さすがの私も即買いができず、図書館に行って、中身を確かめてみることにした。そして、ページを開いて唸った。これはすごい仕事である。
私は、木村蒹葭堂に興味を持っても、すぐに本書(の旧版)に手を出すことはできず、まずは中村真一郎氏の『木村蒹葭堂のサロン』(2000)を読んでみることにした。これだって、700ページ超、5,600円の単行本だから、ずいぶん大きな買い物だと自分では思った。中村真一郎氏は何を読んでいらしたのか? 本文を読みかえすと「昭和末年に公刊されたこの『日記』」とあるから、蒹葭堂日記刊行会刊行の旧版を手元に置かれていたのだろうと思う。しかし、蒹葭堂と画人たちの交流について「蘆雪、蕭白、若冲のいずれも『蒹葭堂日記』には痕跡をとらえられなかった」(559頁、第3部冒頭)という。
しかし、2009年、MIHOミュージアム『若冲ワンダーランド』図録の巻頭で、辻惟雄氏は「若冲は、この年(※天明8年)の十月に大坂の木村蒹葭堂を訪ねている」と述べており、同図録収載の「関連年表」にも「天明8年(1788)10月21日、大坂の木村蒹葭堂宅を訪ねる」とある。2010年、千葉市美術館の『伊藤若冲アナザーワールド』図録の「略年譜」も、天明8年、大火により居宅焼亡のあとに「戸田東三郎忠行とともに大坂の木村蒹葭堂を訪ねる」と載せる。
どういうこと? 真相を確かめたくて、本書の索引から本文の翻刻を確認した。すると、天明8年10月21日は「中食」のあとに「伊藤若仲(割注:戸田東三郎同伴来)」とあり、同29日にも割注(ニ行書き)で「戸田東三郎/伊藤若仲」とある。どちらも「若冲」でなく「若仲」で、索引にもこの表記で拾われている(旧版、新版とも)。うーむ、中村真一郎先生は、この表記を別人として見逃されたのだろうか(お弟子さんとかが検索していたのかなあ…)。
このくらいの異字表記はよくあることで、『アナザーワールド』図録所収、福士雄也氏「伊藤若冲をめぐるニ、三の問題」によれば、壬生寺には若冲が奉納したと伝える狂言面が現存し、面裏には「施主 伊藤若仲/錦棚青物市四丁町中」とあるそうだ。それから、上方の狂歌師・九如館鈍水の狂歌集『興歌野中の水』の中に「若仲」の署名が付された挿図2点が掲載されているという。そうかーやっぱり若冲は蒹葭堂サロンに現れていたのか。どんな大家のいうことでも、原典に当たらず、鵜呑みにしてはいけませんね。久しぶりに初心に帰る心持ちだった。
そして、繰り返すが、この4万人の人名を収載した索引つき『完本蒹葭堂日記』刊行という壮挙! 中尾堅一郎氏の文章をもう一度、引こう。「本日記翻刻編の新版公刊は必ずや人文研究への一層の寄与と相成りますこと、疑いございません。どうか内外江湖の皆様、一冊でも多く御発注、利活用下さいますよう偏にお願い申し上げます」。え、買おうじゃないか。この国の出版文化と人文研究に投資する気概があるなら。
※完本蒹葭堂日記(版元ドットコム):画像あり
まず、書誌来歴から確認しよう。近世大阪の知の巨人、木村蒹葭堂(1736-1802)が残した二十余年分の日記には、4万人(延べ9万人)の来訪者が記されているという。大阪市立図書館の羽間文庫本(24年間18年分)を底本とする『蒹葭堂日記 翻刻編』(水田紀久編集)が、索引つきで蒹葭堂日記刊行会(中尾松泉堂書店)から刊行されたのが、1972(昭和47)年。10年後、花月菴本2年分2冊が発見され、複製のかたちで、同刊行会から追加刊行されている。
これら個別に公刊された旧本を時系列に整え、誤りは細大となく訂正して完本『蒹葭堂日記』と銘打ち、出版という「盛挙」に漕ぎ着けた――そのように冒頭に水田紀久氏自ら記されているのが、2009年、藝華書院より刊行の本書である。さらに、中尾堅一郎氏(「旧版発行に関わった者」と自己紹介されている)の「添え書」によれば、「このたび、東都で旗揚げなさいました藝華書院が、その処女出版物に弊社の代表的刊行物(略)『蒹葭堂日記』をもう一度、と白羽の矢をお立てになりましたことは」「まさに青天の霹靂」しかし「本音を申せば」「身の程を弁えぬ無謀蛮勇の挙とも思えたのでございます」云々。そうだろうなあ。何せ、1冊でお値段40,000円(+税)である。さすがの私も即買いができず、図書館に行って、中身を確かめてみることにした。そして、ページを開いて唸った。これはすごい仕事である。
私は、木村蒹葭堂に興味を持っても、すぐに本書(の旧版)に手を出すことはできず、まずは中村真一郎氏の『木村蒹葭堂のサロン』(2000)を読んでみることにした。これだって、700ページ超、5,600円の単行本だから、ずいぶん大きな買い物だと自分では思った。中村真一郎氏は何を読んでいらしたのか? 本文を読みかえすと「昭和末年に公刊されたこの『日記』」とあるから、蒹葭堂日記刊行会刊行の旧版を手元に置かれていたのだろうと思う。しかし、蒹葭堂と画人たちの交流について「蘆雪、蕭白、若冲のいずれも『蒹葭堂日記』には痕跡をとらえられなかった」(559頁、第3部冒頭)という。
しかし、2009年、MIHOミュージアム『若冲ワンダーランド』図録の巻頭で、辻惟雄氏は「若冲は、この年(※天明8年)の十月に大坂の木村蒹葭堂を訪ねている」と述べており、同図録収載の「関連年表」にも「天明8年(1788)10月21日、大坂の木村蒹葭堂宅を訪ねる」とある。2010年、千葉市美術館の『伊藤若冲アナザーワールド』図録の「略年譜」も、天明8年、大火により居宅焼亡のあとに「戸田東三郎忠行とともに大坂の木村蒹葭堂を訪ねる」と載せる。
どういうこと? 真相を確かめたくて、本書の索引から本文の翻刻を確認した。すると、天明8年10月21日は「中食」のあとに「伊藤若仲(割注:戸田東三郎同伴来)」とあり、同29日にも割注(ニ行書き)で「戸田東三郎/伊藤若仲」とある。どちらも「若冲」でなく「若仲」で、索引にもこの表記で拾われている(旧版、新版とも)。うーむ、中村真一郎先生は、この表記を別人として見逃されたのだろうか(お弟子さんとかが検索していたのかなあ…)。
このくらいの異字表記はよくあることで、『アナザーワールド』図録所収、福士雄也氏「伊藤若冲をめぐるニ、三の問題」によれば、壬生寺には若冲が奉納したと伝える狂言面が現存し、面裏には「施主 伊藤若仲/錦棚青物市四丁町中」とあるそうだ。それから、上方の狂歌師・九如館鈍水の狂歌集『興歌野中の水』の中に「若仲」の署名が付された挿図2点が掲載されているという。そうかーやっぱり若冲は蒹葭堂サロンに現れていたのか。どんな大家のいうことでも、原典に当たらず、鵜呑みにしてはいけませんね。久しぶりに初心に帰る心持ちだった。
そして、繰り返すが、この4万人の人名を収載した索引つき『完本蒹葭堂日記』刊行という壮挙! 中尾堅一郎氏の文章をもう一度、引こう。「本日記翻刻編の新版公刊は必ずや人文研究への一層の寄与と相成りますこと、疑いございません。どうか内外江湖の皆様、一冊でも多く御発注、利活用下さいますよう偏にお願い申し上げます」。え、買おうじゃないか。この国の出版文化と人文研究に投資する気概があるなら。
※完本蒹葭堂日記(版元ドットコム):画像あり