○吉澤誠一郎『清朝と近代世界:19世紀』(岩波新書:シリーズ中国近現代史1) 岩波書店 2010.6
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」全10巻が完結したと思ったら、新たに「シリーズ中国近現代史」全6巻の刊行が始まった。おー楽しみだなあ。2巻以降のラインナップは以下のとおり(岩波書店のページから)。「日本」の執筆陣が、いま「旬」の研究者揃いだったのと同様、「中国」も期待のふくらむ面子である。
2 近代国家への模索:1894-1925/川島真
3 革命とナショナリズム:1925-1945/石川禎浩
4 社会主義への挑戦:1945-1971/久保亨
5 開発主義の時代へ:1972-2010/高原明生
6 中国の近現代史をどう見るか/西村成雄
本書は、乾隆治世の末年、1793年、熱河避暑山荘(去年の夏、行った~!)におけるマカートニー使節団の謁見から書き起こし、おおよそ1894年の日清戦争までを詳述、エピローグとして、義和団戦争、辛亥革命にも簡単に触れる。中国近代史の中でも、とりわけ私の大好きな「時代」で、小説で、映画で、学術書で、繰り返し味わってきたので、さすがにもう驚くような発見はないだろうと思っていた。ところが、やっぱり新しい本を読むと新しい発見があるものだ。
学術書はともかく、(中国製の)映画やドラマでは、この時代は、苦難の時代として描かれることが多い。苦難の原因は、悪辣な侵略者=西欧列強や日本であるとは限らず、統治者の身勝手、官僚の腐敗、民衆の無知などに力点が置かれることもあるが、ともかく19世紀の中国は、世界の潮流に乗り遅れ、なすすべもなく衰亡する過程だったと意識されることが多いと思う。これは、一面では、辛亥革命以降の近代中国の「リベンジ」をより輝かしく見せる効果をもっている。日本人にとっては、大国中国の「失敗」に対して、明治日本の目覚ましい「成功」という、心地よい物語を提供してくれる仕掛けでもある。
本書は、この聞き慣れた物語に、丁寧な修正を加える試みである。たとえば、19世紀半ばには、太平天国の乱に続いて、安徽省では捻軍と呼ばれる武装集団の反乱が、雲南では杜文秀を指導者とする回民(イスラム教徒)の反乱が起きた。しかし、ともかくも清朝が、これらの大動乱を乗り切ることができたのは、外国貿易や商品流通の活性化を活かして、財政の仕組みを立て直し、巨大な軍費をまかなうことができたこと、統治の仕組みに修正を加え、各地の有力者を味方にできたことによる。
後世の目からは後戻りできない衰退のはじまりにあっても、嘉慶帝や道光帝は、国家の立て直しを諦めず、財政・司法・運輸・治水など、あらゆる方面に、CEO(最高経営責任者)として努力を傾注している。ホントに偉いよ、この愛新覚羅氏の一族は。また、19世紀後半には東南アジアへの移民(華僑)が活発になり、彼らが稼いだ金を故郷に送金することで、清朝の輸入超過(貿易赤字)は相殺されるまでになっていたという。へえ~ほんとなのか。海外移民の経済的貢献って大きいんだな。
近代における日本と中国(清朝)との関係といえば、日清戦争から説き起こすのが常道だが、本書は、1862年、徳川幕府が大陸との貿易を求めて、官船・千歳丸(せんざいまる)を上海に派遣したことを記す(高杉晋作が乗り込んだアレか)。この経験は、徳川幕府の瓦解によって部分的にしか継承されなかったが、1871年(明治4年)の日清修好条規が、おおむね両国の対等性という原則に沿って締結される基礎となった。ああ、どうしてその後の歴史は、この線で進まなかったのかなあ。
なお、清朝は、1895年の下関条約では「大清帝国」と名乗っているが、これは「大日本帝国」の影響を受けた表現ではないかという。「帝国」という言葉は古い漢籍にはほとんど見られないのだそうだ。今日では、確か「大清帝国」という中国製時代劇もあったはずなのに…。でも”大清皇帝”は使っているよね。さらに、1908年、清朝が宣布した欽定憲法大綱の第1条には「大清皇帝は、大清帝国を統治し、万世一系、永久に奉戴される」とあるそうだ。ええ~これにはのけぞった。
このほか、ロシア、新疆、ハワイ(!)、シャム(タイ)、ベトナムなど、近代中国史の始まりに多角的な視野を提供してくれる1冊である。
岩波新書の「シリーズ日本近現代史」全10巻が完結したと思ったら、新たに「シリーズ中国近現代史」全6巻の刊行が始まった。おー楽しみだなあ。2巻以降のラインナップは以下のとおり(岩波書店のページから)。「日本」の執筆陣が、いま「旬」の研究者揃いだったのと同様、「中国」も期待のふくらむ面子である。
2 近代国家への模索:1894-1925/川島真
3 革命とナショナリズム:1925-1945/石川禎浩
4 社会主義への挑戦:1945-1971/久保亨
5 開発主義の時代へ:1972-2010/高原明生
6 中国の近現代史をどう見るか/西村成雄
本書は、乾隆治世の末年、1793年、熱河避暑山荘(去年の夏、行った~!)におけるマカートニー使節団の謁見から書き起こし、おおよそ1894年の日清戦争までを詳述、エピローグとして、義和団戦争、辛亥革命にも簡単に触れる。中国近代史の中でも、とりわけ私の大好きな「時代」で、小説で、映画で、学術書で、繰り返し味わってきたので、さすがにもう驚くような発見はないだろうと思っていた。ところが、やっぱり新しい本を読むと新しい発見があるものだ。
学術書はともかく、(中国製の)映画やドラマでは、この時代は、苦難の時代として描かれることが多い。苦難の原因は、悪辣な侵略者=西欧列強や日本であるとは限らず、統治者の身勝手、官僚の腐敗、民衆の無知などに力点が置かれることもあるが、ともかく19世紀の中国は、世界の潮流に乗り遅れ、なすすべもなく衰亡する過程だったと意識されることが多いと思う。これは、一面では、辛亥革命以降の近代中国の「リベンジ」をより輝かしく見せる効果をもっている。日本人にとっては、大国中国の「失敗」に対して、明治日本の目覚ましい「成功」という、心地よい物語を提供してくれる仕掛けでもある。
本書は、この聞き慣れた物語に、丁寧な修正を加える試みである。たとえば、19世紀半ばには、太平天国の乱に続いて、安徽省では捻軍と呼ばれる武装集団の反乱が、雲南では杜文秀を指導者とする回民(イスラム教徒)の反乱が起きた。しかし、ともかくも清朝が、これらの大動乱を乗り切ることができたのは、外国貿易や商品流通の活性化を活かして、財政の仕組みを立て直し、巨大な軍費をまかなうことができたこと、統治の仕組みに修正を加え、各地の有力者を味方にできたことによる。
後世の目からは後戻りできない衰退のはじまりにあっても、嘉慶帝や道光帝は、国家の立て直しを諦めず、財政・司法・運輸・治水など、あらゆる方面に、CEO(最高経営責任者)として努力を傾注している。ホントに偉いよ、この愛新覚羅氏の一族は。また、19世紀後半には東南アジアへの移民(華僑)が活発になり、彼らが稼いだ金を故郷に送金することで、清朝の輸入超過(貿易赤字)は相殺されるまでになっていたという。へえ~ほんとなのか。海外移民の経済的貢献って大きいんだな。
近代における日本と中国(清朝)との関係といえば、日清戦争から説き起こすのが常道だが、本書は、1862年、徳川幕府が大陸との貿易を求めて、官船・千歳丸(せんざいまる)を上海に派遣したことを記す(高杉晋作が乗り込んだアレか)。この経験は、徳川幕府の瓦解によって部分的にしか継承されなかったが、1871年(明治4年)の日清修好条規が、おおむね両国の対等性という原則に沿って締結される基礎となった。ああ、どうしてその後の歴史は、この線で進まなかったのかなあ。
なお、清朝は、1895年の下関条約では「大清帝国」と名乗っているが、これは「大日本帝国」の影響を受けた表現ではないかという。「帝国」という言葉は古い漢籍にはほとんど見られないのだそうだ。今日では、確か「大清帝国」という中国製時代劇もあったはずなのに…。でも”大清皇帝”は使っているよね。さらに、1908年、清朝が宣布した欽定憲法大綱の第1条には「大清皇帝は、大清帝国を統治し、万世一系、永久に奉戴される」とあるそうだ。ええ~これにはのけぞった。
このほか、ロシア、新疆、ハワイ(!)、シャム(タイ)、ベトナムなど、近代中国史の始まりに多角的な視野を提供してくれる1冊である。