○国立歴史民俗博物館 企画展示『侯爵家のアルバム-孝允から幸一にいたる木戸家写真資料-』(2011年3月1日~5月29日)
会期最後の週末に、慌てて行ってきた。解説に言う。同館所蔵の旧侯爵木戸家資料、孝允(たかよし) ― 正二郎(しょうじろう) ― 孝正(たかまさ) ― 幸一(こういち) 4代にわたる資料群は、1984年から1998年にかけて寄贈を受けたものだが、簡単な仮目録があるだけだった。平成13年度(2001)から整理作業を進め、ようやく資料目録刊行の見通しがついた。いやー20年やそこらの放置で済んだのなら、幸せな資料群だと思う。博物館や図書館に流れる時間のスケールって、そんなものだ。
今回は、1万5千件に上る厖大な資料の中から写真資料に絞って紹介。総数5,241件から、特色ある写真をピックアップして展示している。最も古い写真は幕末、慶応年間。木戸孝允(桂小五郎)は、丁髷・帯刀姿で写っている。裏面に庚午(=明治3年)と墨書された写真でもまだ丁髷姿。明治4年、岩倉使節団の一員として渡米した際の写真から、断髪・洋装になる。不思議なくらい背広が似合って男前だ。木戸の写真は、「没後はスターのブロマイドのように市販され、世間に流布した」というけど、何故!? イケメンだったからか? 苦み走ったというより、どの写真も、苦虫をかみつぶしたように、口をへの字に結んでいる。長崎・上野彦馬写真館で撮った集合写真で、洋装の伊藤博文だけが、無防備に歯を見せて笑っているのが印象的だ。松子夫人は、どの写真を見ても、衣紋の抜きが大きい。
長州閥、新政府関係の人々の写真は多い。目力があって、いい表情のオッサンがいるなーと思ったら、広沢真臣だった。あっ、川路寛堂(川路聖謨の孫の太郎ちゃん)とか、大久保利通エラソー、とか、いろいろと面白い。岩倉使節団の人々は、随員の間で、あるいは会見した外国人、現地の留学生と、さかんに写真を交換していたようだ。使節団の名簿(構成員のほか、随行者・留学生を含む)と、木戸家のアルバムに写真があるかないかの表を眺めているだけで興味深かった。岩倉使節団に5人の女子留学生が随伴していたことは有名だが、孝允の養嗣子・正二郎など、少年留学生たちがいたことを、私はこれまで知らなかった。背広姿で、精いっぱい大人びたポーズを決める彼らの心中はどんなふうだったんだろう。
正二郎、孝正を経て、木戸幸一の生涯は激動そのもの。学習院の学校生活は、写真で見ると、思っていたより男臭そう。長じて、ゴルフ、テニス、留学の日々。そして、昭和天皇の側近として、大臣を歴任。敗戦とともに戦争犯罪人となる。巣鴨プリズン内の写真や、プリズンから一時帰宅したときの写真なども残っていて、生々しい。
壁の解説パネルに、樋口雄彦さんという方が「宮中グループ」というコラムを書いており、敗戦前後の政治情勢について「日中戦争以来、軍部を支持し戦時体制を推進してきた宮中グループは、敗戦前後には一転してすべての責任を陸軍に押しつけようとする」と断じていた。へえー宮中グループ(木戸幸一もそのひとり)に対し辛辣だな、と思い、気になった。展示図録に何か長い文章でも書かれていないかな、と思ったが、残念ながら、パネルの文章がそのまま掲載されているだけだった。でも、お名前、覚えておこう。
なお、最終日を待たずに『旧侯爵木戸家資料目録』は「完売」だった。すごい! そんなに木戸家ファンがいるのか? 何割くらいが孝允マニアで、何割くらいが幸一マニアなんだろう。
会期最後の週末に、慌てて行ってきた。解説に言う。同館所蔵の旧侯爵木戸家資料、孝允(たかよし) ― 正二郎(しょうじろう) ― 孝正(たかまさ) ― 幸一(こういち) 4代にわたる資料群は、1984年から1998年にかけて寄贈を受けたものだが、簡単な仮目録があるだけだった。平成13年度(2001)から整理作業を進め、ようやく資料目録刊行の見通しがついた。いやー20年やそこらの放置で済んだのなら、幸せな資料群だと思う。博物館や図書館に流れる時間のスケールって、そんなものだ。
今回は、1万5千件に上る厖大な資料の中から写真資料に絞って紹介。総数5,241件から、特色ある写真をピックアップして展示している。最も古い写真は幕末、慶応年間。木戸孝允(桂小五郎)は、丁髷・帯刀姿で写っている。裏面に庚午(=明治3年)と墨書された写真でもまだ丁髷姿。明治4年、岩倉使節団の一員として渡米した際の写真から、断髪・洋装になる。不思議なくらい背広が似合って男前だ。木戸の写真は、「没後はスターのブロマイドのように市販され、世間に流布した」というけど、何故!? イケメンだったからか? 苦み走ったというより、どの写真も、苦虫をかみつぶしたように、口をへの字に結んでいる。長崎・上野彦馬写真館で撮った集合写真で、洋装の伊藤博文だけが、無防備に歯を見せて笑っているのが印象的だ。松子夫人は、どの写真を見ても、衣紋の抜きが大きい。
長州閥、新政府関係の人々の写真は多い。目力があって、いい表情のオッサンがいるなーと思ったら、広沢真臣だった。あっ、川路寛堂(川路聖謨の孫の太郎ちゃん)とか、大久保利通エラソー、とか、いろいろと面白い。岩倉使節団の人々は、随員の間で、あるいは会見した外国人、現地の留学生と、さかんに写真を交換していたようだ。使節団の名簿(構成員のほか、随行者・留学生を含む)と、木戸家のアルバムに写真があるかないかの表を眺めているだけで興味深かった。岩倉使節団に5人の女子留学生が随伴していたことは有名だが、孝允の養嗣子・正二郎など、少年留学生たちがいたことを、私はこれまで知らなかった。背広姿で、精いっぱい大人びたポーズを決める彼らの心中はどんなふうだったんだろう。
正二郎、孝正を経て、木戸幸一の生涯は激動そのもの。学習院の学校生活は、写真で見ると、思っていたより男臭そう。長じて、ゴルフ、テニス、留学の日々。そして、昭和天皇の側近として、大臣を歴任。敗戦とともに戦争犯罪人となる。巣鴨プリズン内の写真や、プリズンから一時帰宅したときの写真なども残っていて、生々しい。
壁の解説パネルに、樋口雄彦さんという方が「宮中グループ」というコラムを書いており、敗戦前後の政治情勢について「日中戦争以来、軍部を支持し戦時体制を推進してきた宮中グループは、敗戦前後には一転してすべての責任を陸軍に押しつけようとする」と断じていた。へえー宮中グループ(木戸幸一もそのひとり)に対し辛辣だな、と思い、気になった。展示図録に何か長い文章でも書かれていないかな、と思ったが、残念ながら、パネルの文章がそのまま掲載されているだけだった。でも、お名前、覚えておこう。
なお、最終日を待たずに『旧侯爵木戸家資料目録』は「完売」だった。すごい! そんなに木戸家ファンがいるのか? 何割くらいが孝允マニアで、何割くらいが幸一マニアなんだろう。