見もの・読みもの日記

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燃やし尽くす生命/現代語訳・史記(大木康)

2011-06-18 23:41:14 | 読んだもの(書籍)
○司馬遷、大木康訳・解説『現代語訳 史記』(ちくま新書) 筑摩書房 2011.2

 明清の「軟文学」の専門家である大木康氏による史記抄訳集。この取り合わせに、へえ~と思ったが、読んでみて特に違和感はなかった。「あとがき」にいうように、明代の著者は、みな前代の書物を読み、それを踏まえて著作をしているのだから、明代文学の研究者が、前漢時代に書かれた『史記』を読まなくていいというわけにはいかない。当然である。文学研究とはそういうものだ。

 本書は、おおよそ原文に忠実な史記の現代語訳を基本とし、ところどころに、それと分かるかたちで訳者の解説を挟んでいる(講釈師みたい)。何も参照せずに「原文に忠実な」と書いたのは、訳文を読んでいると、むかし何度も読んだ原文(読み下し文)が浮かんでくるのだ。刺客・荊軻が始皇帝に迫る場面では、「左右乃曰、王負剣。負剣。」という緊迫した白文まで、まざまざと目の前に浮かんできた。

 史記は名文の宝庫である。訳者もよく分かっていて、此処という箇所には、伝統的な原文の読み下し文を太活字で挟んである。「奇貨居くべし」とか「彼取りて代わるべきなり」とかね。やはりこの「訓読」というシステムは捨てがたい。時代に即した訳文は、読みやすいけれど、また忘れられやすい。「訓読」というシステムがあったからこそ、われわれ日本人は、中国古典を自国の文学的伝統の中に取り込むことができたのだと思う。

 さて、訳者は、史記130巻から新書版の抄訳集の分量を選び出すにあたっては、登場人物のキャリア、出世に至る過程に注目をしたという。これはどうかなー。「権力にあるもの(帝王)」「権力を目指すもの(英雄)」「権力を支えるもの(輔弼の臣下)」「権力の周辺にあるもの(道化・名君・文学者)」までは分かるとしても、最終章の「権力に刃向かうもの(刺客と反乱者)」もキャリアなのか?

 まあ「キャリア」という言葉を、無名の人々が、どのような青春物語の果てに、歴史に名を残す人物となったのか、と考えれば、刺客も立派なキャリアである。当時、史上最大の権力者・始皇帝に挑み、敗れて、しかし二千年の歴史に名を残した荊軻も高漸離も、赫々たるキャリアの獲得者と言っていいだろう。なんだか、最近流行りのキャリア教育とかキャリア設計の考え方を、根本から突き崩してくれる点で爽快である。

 やっぱり、私が『史記』の登場人物でいちばん好きなのは、彼ら(刺客列伝)である。彼らは、人生の大部分、特に何をしたわけでもない。ただ一瞬の好機に、惜しげもなく生命をスパークさせることで、歴史に名を刻んだ。生命とは、好機に蕩尽するために天から貰って(むしろ借りて)いるのだ、と思う。現代人は雑念が多すぎて、とても彼らのような生き方はできないけれど。

 訳者に、本書に先立ち『「史記」と「漢書」』(2008)という著書があることは初めて知った。たぶん同書に詳述されているのだろうが、後漢から唐の初期までは『史記』よりも『漢書』のほうが高く評価されており、理由として『史記』は司馬遷の個人的な怨みが強すぎると見られていた、という本書の解説を面白いと思った。私たちが『史記』の魅力と感じる要素が、ある時代には瑕疵と受け止められていたのである。

 前掲書は、岩波書店の「書物誕生」シリーズの1冊。これ、寡聞にして知らなかった。渋いラインナップだなー。いくつか読んでみたいものがある。
コメント
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