見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

粟特城の章、毒敵山の章/西遊妖猿伝・西域篇(3)(諸星大二郎)

2011-06-04 22:18:52 | 読んだもの(書籍)
○諸星大二郎『西遊妖猿伝・西域篇』3 講談社 2011.6

 舞台は相変わらず伊吾国。架空のオアシス都市・粟特城でひと悶着。悟空は、羊力大仙の娘、アマルカの計略にかかり、屍鬼(ドゥルジ・ナス)を祆教(ゾロアスター教)の神殿に引き入れ、聖火を穢してしまう。謎を残したまま、玄奘一行は伊吾城(ハミ)に到着。巨大な羊にまたがった妖少女アマルカが、悟空の前に再び姿をあらわす…。

 1年ぶりの続巻刊行。少しストーリーに速度が加わってきた感じでうれしい。羊の屍肉(それも数匹分が合体)を原型に、切っても切っても再生して増えていく、軟体系の怪物ドゥルジ・ナスは、いかにも諸星ワールドの住人。ヒエロニムス・ボスの絵に出てきそうな、羊の頭蓋骨に短い手足をつけたドゥルジ・ナスと、それを追う悟空が、四角い土壁の家の並んだ、オアシス都市の夜の道を疾走する場面には、痺れた。

 西域の街並みの描き方には、意外と「実感」がある。悟空が立ち回りを演ずる伊吾城のお屋敷は、土を固めたドーム状の丸屋根の中心に穴が開いていて、空が見えるように描かれているが、新疆ウイグル自治区を旅行したとき、こんな建物を見た覚えがある。ええと、ただし、一般の家屋ではなくて、モスク寺院だったような気もするけど…。でも、遺跡や考古資料を巧みに取り入れていて、楽しい。白茶けた土づくりの家並みと青い空の記憶がよみがえる。また行きたいなあ、西域。

 「羊力大仙」は原典・西遊記にも登場する妖怪の名前。作者はカバーの折り返しで「元来の『西遊記』とはどんどん違う世界へ向かっているような気もするのですが、さてどうでしょう?」なんてつぶやいているが、もともと玄奘三蔵の旅を、全て漢民族の伝統世界に落とし込んでしまった西遊記が一種の「捏造」なんだから、先祖返りと思っていいのではないかと思う。

 双子のハルとアム、ぶち犬のワユは、緊迫した屍鬼との戦いの中でも、笑顔を誘う癒しキャラ。こういう役は、大唐篇にはいなかったような。しかし、悟空は年を取らないなあ。本のオビに「読む者の少年心を揺り起こす」というけれど、私にとっては、鉄腕アトムと並ぶ永遠の少年である。
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モノから考える/本質を見抜く力(養老孟司、竹村公太郎)

2011-06-04 10:38:54 | 読んだもの(書籍)
○養老孟司、竹村公太郎、神門善久『本質を見抜く力:環境・食料・エネルギー』(PHP新書) PHP研究所 2008.9

 原発事故以降、エネルギー問題への関心が高まっており、私も少し考えてみたいと思ったのだが、いかにも便乗企画で書店に現れた本は読む気にならない。あまりに評価の定まった古典的名著も、現状認識の点で、参考にならないのではないかと思う。迷っていたら、本書が目にとまった。

 面白かった。前半、養老先生はどちらかといえば聞き役で、豊富なデータに基づいて、持論を展開するのは、元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏。あらためて考えてみたのだが、日本の将来に関する提言を、私が「参考になるか、ならないか」判断する基準は二つある。一つは過去の歴史がきちんと検証されていること。過去に対して手前勝手な論者は、どうせ将来についても、その場しのぎの見通ししか立て得ない。二つ目は、反発や抵抗が予想される具体策をきちんと述べているかどうか、である。

 第一には、最初の巨大油田発見(1935年)以降のデータをもとに、原油産出量が近現代の国際社会のバランス・オブ・パワーにどう影響したかを論ずる第1章から、私は本書にのめり込んだ。アメリカの言う自由経済とは、原油価格が上がらない(無限にオイルが供給できる)という条件あっての概念である、とか。昭和天皇が「先の日米戦争は油で始まり油で終わった」という言葉を残されているのも興味深い。竹村さん、「アメリカのエネルギーは解決不能で、たぶんもう取り返しがつきません」なんて、恐ろしいことをおっしゃる。

 では、日本人はどうか。前近代社会のエネルギー源は森林だった。竹村氏は、日本人は心のどこかに「オイルピーク(エネルギー源の崩壊)を一回経験した」というDNAを受け継いでいるのではないか、と希望を託す。同氏の示すデータによれば、日本文明は江戸時代末期まで森林資源を使い果たし、限界まで来ていた。にもかかわらず「いまほど森林が豊かな時代はない」。そもそも「人類の文明史の中で(※近代以前)山の木を植林で守ろうとしたのはおそらく日本文明だけです」という発言にも、蒙をひらかれる感じがした。

 人類史はエネルギーの争奪戦である。その観点から見ると、たとえば桓武天皇が平城京から平安京に遷都したのも、奈良盆地の周辺の森林資源を使い果たしたためではないか、という。おお、新鮮! 文献歴史学者にはできない発想である。「要するにエネルギーだろ」という身も蓋もない話は誰も聞いてくれない、と竹村氏は自嘲的におっしゃっているが、モノから考える視点は、もう少し大切にされなければいけない。このたびの震災復興に関しても、「ビジョン」とか「ミッション」とか言いすぎだろ、と思う。

 第二に、本書は、具体化すれば、当然、議論の起こる政策提言を敢えて述べている点でも面白かった。電力会社が全国津々浦々に送電するシステムは無駄が多い。エネルギーが逼迫してきたら、過疎の村は、地元でエネルギーをつくる(というシステムを国家が構想する)必要がある、とか。住民は街に集まってくれたほうがいい。先祖代々の土地を動きたくない場合は、住民も近代的な設備を要求しない覚悟がいる、等々。

 この点は、本書中盤、神門(ごうど)善久氏を加えての、日本の農業と食料問題に関する鼎談部分に顕著である。神門さんの著書『日本の食と農』(NTT出版、2009年)は、サントリー学芸賞を受賞し、言論書としての評価は得たが、農水省からもJAからも新聞、学界からも何らアプローチがなく、農業関係者の間では「僕の本は存在しなかったことになっている」と自らおっしゃる。本書の中でも「ノスタルジックなスローフードだの、まやかしの地産地消だの、あんなものが話題になるのは農業の本当のすごさを知らないからです」とぴしゃりと断じている。

 官僚が悪いとか政治家が悪い、あるいは農業従事者が悪い、というような「悪者探し」の言論は、いまの社会では受けがいい。しかし、神門氏が最終的に指弾しているのは、「つらい現実を見るのはやめて、その代わりに悪者をつくろう」という選択をしたわれわれ、市民一般である。

 現代社会を取り巻く課題は数多くあるが、どこかに「正しいやり方」がある、という思い込みはやめよう、という養老先生の言葉に賛成する。モノから考えること、五感を働かせること、経験を積み上げて知性を養っていく文明に、再シフトしていかなければならないと思う。

玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生:オランダからイギリスへ』(講談社選書メチエ、2009)
ヨーロッパにおける森林資源の枯渇問題に触れる。森林ってエネルギー資源だったんだ、と初めて認識した本。

サントリー学芸賞:神門善久『日本の食と農』(NTT出版、2009年)選者評
同書は未読だが、同賞受賞作は、だいたいどれも外れがなくて、好印象を持っている。
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