○田中伸尚『ルポ 良心と義務:「日の丸・君が代」に抗う人びと』(岩波新書) 岩波書店 2012.4
国旗国歌法の制定(1999年8月)から13年になるという。もうそんなになるのか…。当時、すでに成人していて、比較的、思想も行動も自由で、安定した職場に身を置いていた自分は、くだらねー法律つくりやがって、くらいにしか考えていなかったのに。本書を読んで、初中等教育の現場は、なんだか大変なことになっているんだなあ、と溜息が出た。
ただし、それは、「日の丸・君が代」に抵抗している人びとへの共感を意味しない。正直にいうと、「日の丸・君が代」を強制すべく奮闘している学校管理職も、良心や心の自由を盾に抵抗している教員たちも、私にはどちらも滑稽に見えた。無地のソックスが原則のところ、10円玉大のワンポイントを認めるかとか、マフラーをコートの衿の中に入れさせるか、外に巻いてもいいかとか、実にどうでもいいことが、大真面目な議論の種になる。学校とは、そういうところだ。20年以上も前になるが、教員をしていた自分の経験に照らし合わせて、何も変わっていないように感じた。
私は、かつて教員の職を探していたとき、「毎朝、国旗掲揚があります」という私立学校から内定を貰って、それはちょっと勘弁してくれ、と思って、内定を断った経験がある。だから本書では、就職したあとで、職場に「日の丸・君が代」を持ち込まれて、困惑している教員たちに同情・共感がないわけではない。
だが、自分の「抵抗」を埋もれさせないために、きちんと不起立を「視認」してほしいと校長に訴えるとか、「処分」されないことを不満とする感覚、それを立派な抵抗の態度として称える著者の感覚になると理解できない。そんなもの、なあなあで済ましておけばいいのに。現実の社会には、本音と建前があるから、建前がいくら息苦しくなっても、隙間を探せば、どんな変わり者でも生きていける、ということを若者たちに教えてあげたほうが、彼らも生きやすくなると思うのだが、それでは駄目なのだろうか。
竹内洋さんが『革新幻想の戦後史』で皮肉っぽく描いていたけど、教員や進歩的ジャーナリストって、体質的に「使命感を掻き立てるもの」を必要とする人々なのではないかと思う。あと原武史さんの『滝山コミューン1974』に描かれていたように、この問題で、生徒ひとりひとりの良心や個性を尊重すると言っている教員たちの目指す「民主的教育」も、子どもたちにとって「圧力」である点は、あまり変わらないんじゃないかと思う。
それから、良くも悪くも「日の丸・君が代」特に「日の丸」に対する抵抗感は、この十数年で、ずいぶん薄れてきたと認めざるを得ない。この点で、本書の著者は、どうにも時代の変化を汲み取れていないように感じられた。もちろん、どれだけ少数者であっても、その良心や思想の自由は尊重されなければならないのだが、宗教上の理由から、たとえば慣行的な「お宮参り」や「夏祭り」あるいは「クリスマス」などの押し付けにも、苦悩を抱えている人たちが日本社会の中にいるということを、著者やここに登場する教員たちは、考えたことがあるのだろうか。
国旗国歌だけを突出した問題と考えるのは戦後日本の特性かもしれないけど、暑苦しさと寒々しさだけが残るルポルタージュだった。
国旗国歌法の制定(1999年8月)から13年になるという。もうそんなになるのか…。当時、すでに成人していて、比較的、思想も行動も自由で、安定した職場に身を置いていた自分は、くだらねー法律つくりやがって、くらいにしか考えていなかったのに。本書を読んで、初中等教育の現場は、なんだか大変なことになっているんだなあ、と溜息が出た。
ただし、それは、「日の丸・君が代」に抵抗している人びとへの共感を意味しない。正直にいうと、「日の丸・君が代」を強制すべく奮闘している学校管理職も、良心や心の自由を盾に抵抗している教員たちも、私にはどちらも滑稽に見えた。無地のソックスが原則のところ、10円玉大のワンポイントを認めるかとか、マフラーをコートの衿の中に入れさせるか、外に巻いてもいいかとか、実にどうでもいいことが、大真面目な議論の種になる。学校とは、そういうところだ。20年以上も前になるが、教員をしていた自分の経験に照らし合わせて、何も変わっていないように感じた。
私は、かつて教員の職を探していたとき、「毎朝、国旗掲揚があります」という私立学校から内定を貰って、それはちょっと勘弁してくれ、と思って、内定を断った経験がある。だから本書では、就職したあとで、職場に「日の丸・君が代」を持ち込まれて、困惑している教員たちに同情・共感がないわけではない。
だが、自分の「抵抗」を埋もれさせないために、きちんと不起立を「視認」してほしいと校長に訴えるとか、「処分」されないことを不満とする感覚、それを立派な抵抗の態度として称える著者の感覚になると理解できない。そんなもの、なあなあで済ましておけばいいのに。現実の社会には、本音と建前があるから、建前がいくら息苦しくなっても、隙間を探せば、どんな変わり者でも生きていける、ということを若者たちに教えてあげたほうが、彼らも生きやすくなると思うのだが、それでは駄目なのだろうか。
竹内洋さんが『革新幻想の戦後史』で皮肉っぽく描いていたけど、教員や進歩的ジャーナリストって、体質的に「使命感を掻き立てるもの」を必要とする人々なのではないかと思う。あと原武史さんの『滝山コミューン1974』に描かれていたように、この問題で、生徒ひとりひとりの良心や個性を尊重すると言っている教員たちの目指す「民主的教育」も、子どもたちにとって「圧力」である点は、あまり変わらないんじゃないかと思う。
それから、良くも悪くも「日の丸・君が代」特に「日の丸」に対する抵抗感は、この十数年で、ずいぶん薄れてきたと認めざるを得ない。この点で、本書の著者は、どうにも時代の変化を汲み取れていないように感じられた。もちろん、どれだけ少数者であっても、その良心や思想の自由は尊重されなければならないのだが、宗教上の理由から、たとえば慣行的な「お宮参り」や「夏祭り」あるいは「クリスマス」などの押し付けにも、苦悩を抱えている人たちが日本社会の中にいるということを、著者やここに登場する教員たちは、考えたことがあるのだろうか。
国旗国歌だけを突出した問題と考えるのは戦後日本の特性かもしれないけど、暑苦しさと寒々しさだけが残るルポルタージュだった。