○雑誌『芸術新潮』2017年10月号「オールアバウト運慶」 新潮社 2017.10
東京国立博物館の『運慶』展の連動企画。個人的に、『運慶』展には必ずしも高い評価をつけていないのだが、本誌の特集は非常によかった。金沢文庫主任学芸員の瀬谷貴之さんの解説がいいとか、写真がいい(やっぱり仏像はこのくらい明暗のあるライティングのほうがいい)とか、伊野孝行さんのマンガが分かりやすいとか、ポイントはいろいろあるけど、最大の理由は作品データの豊富さだと思う。
まず「運慶全仕事マップ」があって、大方の研究者が運慶作品と認める現存作(約30点)と瀬谷貴之さんが運慶作と考える舞楽面2点を写真で掲げ、文献により運慶が作ったと知られる、または推定される消失作品を絵で示す。絵で示された消失作品が興味深い。鎌倉には、永福寺(廃寺)に薬師三尊、毘沙門天、十二神将、阿弥陀如来、釈迦如来。鶴岡八幡宮には五重塔があって、金剛界大日如来と胎蔵界大日如来と四智如来。さらに大倉御所に勝長寿院、等々、狭いエリアに「運慶仏」がひしめきあっていた、ありし日の鎌倉を思う。京都の神護寺もすごかったんだなあ。近衛基通念持仏の普賢菩薩なんてのも。奈良・東大寺大仏殿には、13メートル(南大門の仁王より大きい)の四天王像、9メートルの観音菩薩坐像と虚空菩薩坐像があったという。すごい。残念ながら、今の私たちに残されているのは「運慶ワールド」のごく一部でしかない。
次に、個別の「運慶作品カルテ」がNo.17まで。阿弥陀如来坐像と両脇侍、八大童子像などは複数作品で1件のカルテにまとまっていて、写真のほか、所蔵、制作年、法量(大きさ)、材質、指定、運慶作の根拠、見どころが簡潔・的確に記述されていて、これは使える。「運慶作の根拠」は興味深く、体内から銘札が見つかっているものもあえば、伝来、文献、「作風」とか「像内納入品の形式」など、合わせ技で判断することもあるのは、裁判の証拠みたいだ。
作者・運慶が生きたのは「貴族から武者の世へ」の大転換の時代だった。「主役のみなさん」に似顔絵つきで挙げられているのは、鳥羽院、後白河院、後鳥羽院、信西、清盛、頼朝、北条時政。ええと、一般にどのくらいなじみがあるだろうか。私は大好きな人々である。
それから仏師の系譜も分かりやすく解説されていた。白河院、鳥羽院の時代に好まれた「円派」の明円。後白河院、清盛に使われた院派の院尊。そして、新興勢力の「奈良仏師」を率いていたのが康慶。奈良仏師は、奈良、特に興福寺を拠点とする仏師集団のことだが、京都でも仕事をしており、三十三間堂の造仏の主たる担い手でもあった。
重衡による南都焼き討ちの後、興福寺を再建するにあたっては、院派・円派・慶派にバランスよく仕事が割り当てられた。最も格の高い金堂の造仏は円派、講堂は院派だったが現存しない。解説の瀬谷さんいわく「(興福寺は)院派・円派の作品はほぼ全滅したのに、慶派の作品はよく残っているなあ」。偶然とはいえ感慨深い。後世の慶派が完成させた食堂の千手観音像は昭和5年の失火で焼けたけど、しぶとく現存しているしなあ。「慶派推しの坊さんたち」も親しみやすいイラスト入りで紹介されている。文覚、明恵、貞慶…。重源なら「早いし巧いし慶派、使えるわ」ってほんとに言っていそう。
また、『運慶願経』について、日本中世史の野村育世さんが書いているコラムも興味深い。『芸術新潮』の前回の運慶特集(2009年1月号)は、経の奥書に登場する「女大施主阿古丸」について「傀儡子の過去を持ち、のちに貴族の妻になった人物とも」と紹介していた。これは、さまざまな史料に登場する「阿古丸」を全て同一人物と推定した、かなり無理のある論文が根拠になっている。この説が「なぜか美樹史の世界では広く受け入れられてしまった」そうだ。2009年でも、一般の歴史と美術史にそんな認識の乖離があったこと、『芸術新潮』がいわば前回の訂正記事を掲載していることを感慨深く読んだ。
鎌倉・永福寺跡の空撮写真にもびっくりした。ただの野っ原だと思っていたら、こんなに整備されて公開が始まっていたのか。この秋は、ぜひ久しぶりに行ってみることにしよう。最後に繰り返して強調しておくが、つくづく写真がいい。構図とか明暗とか、仏像好きを喜ばせる写真が満載である。
ほかに『長沢芦雪展』、『国宝』展、『ウインザーチェア』と、この秋おすすめの展覧会の記事も楽しめた。巻末の「ちくちく美術館」は『地獄絵ワンダーランド』で、これは元ネタ(素朴絵系地獄図)の破壊力を知っているだけに衝撃度が弱い。
東京国立博物館の『運慶』展の連動企画。個人的に、『運慶』展には必ずしも高い評価をつけていないのだが、本誌の特集は非常によかった。金沢文庫主任学芸員の瀬谷貴之さんの解説がいいとか、写真がいい(やっぱり仏像はこのくらい明暗のあるライティングのほうがいい)とか、伊野孝行さんのマンガが分かりやすいとか、ポイントはいろいろあるけど、最大の理由は作品データの豊富さだと思う。
まず「運慶全仕事マップ」があって、大方の研究者が運慶作品と認める現存作(約30点)と瀬谷貴之さんが運慶作と考える舞楽面2点を写真で掲げ、文献により運慶が作ったと知られる、または推定される消失作品を絵で示す。絵で示された消失作品が興味深い。鎌倉には、永福寺(廃寺)に薬師三尊、毘沙門天、十二神将、阿弥陀如来、釈迦如来。鶴岡八幡宮には五重塔があって、金剛界大日如来と胎蔵界大日如来と四智如来。さらに大倉御所に勝長寿院、等々、狭いエリアに「運慶仏」がひしめきあっていた、ありし日の鎌倉を思う。京都の神護寺もすごかったんだなあ。近衛基通念持仏の普賢菩薩なんてのも。奈良・東大寺大仏殿には、13メートル(南大門の仁王より大きい)の四天王像、9メートルの観音菩薩坐像と虚空菩薩坐像があったという。すごい。残念ながら、今の私たちに残されているのは「運慶ワールド」のごく一部でしかない。
次に、個別の「運慶作品カルテ」がNo.17まで。阿弥陀如来坐像と両脇侍、八大童子像などは複数作品で1件のカルテにまとまっていて、写真のほか、所蔵、制作年、法量(大きさ)、材質、指定、運慶作の根拠、見どころが簡潔・的確に記述されていて、これは使える。「運慶作の根拠」は興味深く、体内から銘札が見つかっているものもあえば、伝来、文献、「作風」とか「像内納入品の形式」など、合わせ技で判断することもあるのは、裁判の証拠みたいだ。
作者・運慶が生きたのは「貴族から武者の世へ」の大転換の時代だった。「主役のみなさん」に似顔絵つきで挙げられているのは、鳥羽院、後白河院、後鳥羽院、信西、清盛、頼朝、北条時政。ええと、一般にどのくらいなじみがあるだろうか。私は大好きな人々である。
それから仏師の系譜も分かりやすく解説されていた。白河院、鳥羽院の時代に好まれた「円派」の明円。後白河院、清盛に使われた院派の院尊。そして、新興勢力の「奈良仏師」を率いていたのが康慶。奈良仏師は、奈良、特に興福寺を拠点とする仏師集団のことだが、京都でも仕事をしており、三十三間堂の造仏の主たる担い手でもあった。
重衡による南都焼き討ちの後、興福寺を再建するにあたっては、院派・円派・慶派にバランスよく仕事が割り当てられた。最も格の高い金堂の造仏は円派、講堂は院派だったが現存しない。解説の瀬谷さんいわく「(興福寺は)院派・円派の作品はほぼ全滅したのに、慶派の作品はよく残っているなあ」。偶然とはいえ感慨深い。後世の慶派が完成させた食堂の千手観音像は昭和5年の失火で焼けたけど、しぶとく現存しているしなあ。「慶派推しの坊さんたち」も親しみやすいイラスト入りで紹介されている。文覚、明恵、貞慶…。重源なら「早いし巧いし慶派、使えるわ」ってほんとに言っていそう。
また、『運慶願経』について、日本中世史の野村育世さんが書いているコラムも興味深い。『芸術新潮』の前回の運慶特集(2009年1月号)は、経の奥書に登場する「女大施主阿古丸」について「傀儡子の過去を持ち、のちに貴族の妻になった人物とも」と紹介していた。これは、さまざまな史料に登場する「阿古丸」を全て同一人物と推定した、かなり無理のある論文が根拠になっている。この説が「なぜか美樹史の世界では広く受け入れられてしまった」そうだ。2009年でも、一般の歴史と美術史にそんな認識の乖離があったこと、『芸術新潮』がいわば前回の訂正記事を掲載していることを感慨深く読んだ。
鎌倉・永福寺跡の空撮写真にもびっくりした。ただの野っ原だと思っていたら、こんなに整備されて公開が始まっていたのか。この秋は、ぜひ久しぶりに行ってみることにしよう。最後に繰り返して強調しておくが、つくづく写真がいい。構図とか明暗とか、仏像好きを喜ばせる写真が満載である。
ほかに『長沢芦雪展』、『国宝』展、『ウインザーチェア』と、この秋おすすめの展覧会の記事も楽しめた。巻末の「ちくちく美術館」は『地獄絵ワンダーランド』で、これは元ネタ(素朴絵系地獄図)の破壊力を知っているだけに衝撃度が弱い。