見もの・読みもの日記

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統計で読む・統計を読む/日本の公教育(中澤渉)

2018-04-09 23:30:38 | 読んだもの(書籍)
〇中澤渉『日本の公教育:学力・コスト・民主主義』(中公新書) 中央公論新社 2018.3

 公教育とは、一部もしくは全体は公費によって運営され、広く一般国民が受けることのできる学校教育を指す。幼稚園から大学及び高等専門学校まで。短期大学、大学院、専修学校・各種学校、それに特別支援学校も含まれる。厚生労働省の管轄である保育所も、文脈によって本書では公教育の対象に含めることがあらかじめ示されている。

 序章は、本書のテーマである「教育の公共的価値とは何か」が表題になっている。教育システムを維持することは政府にとって一時的なコストになる。しかし、教育は社会全体の富を増やし、国家の税収を増やす。道徳意識が高まることで、治安維持や医療のコストを減らし、文化的で民主主義的な社会をもたらすと言われている。日本人は教育熱心だと言われるが、それは自分の子どもに対してである。教育(特に就学前教育、高等教育)は社会がサポートすべき問題であるという視点が希薄で、教育を担う側も、教育の重要性を説得力のある形で社会に訴える姿勢が欠けていたのではないか、と著者は指摘する、同意できるところが多い。

 第1章では、近代学校制度の発達と、それに伴う家族や地域社会、労働市場との関係性の変容について考察する。いろいろ関連書は読んできたが、あらためて高等教育機関(大学)の歴史を興味深く読んだ。1970年代に「マス化」を遂げた日本の大学は、2000年代に至って「ユニバーサル段階」に突入したという。ここまで進学率が上昇すれば、大学の組織や社会的役割が変わらないと考えるほうがおかしい、というのはそのとおりだ。70年代どころか、90年代の大学のイメージで今の大学を考えてはいけないのだと思う。

 第2章では格差・不平等を考える。アメリカの歴史社会学者は、学校教育の掲げるべき目標として「民主的平等」「社会的効率性」「社会移動」を挙げる。これら全てを同時に達成することは困難だが、近年の教育改革は「社会的効率性」と「社会移動」を強調しすぎた結果、教育の公共財的側面を見失わせているという。これも非常に同意。一方、格差解消のため、公教育(たとえばその一部である高等教育)を無償化したらどうなるか、という思考実験も論じられている。学校運営のコストに対して、十分なリソースが調達されないまま、無償化を先行すると「著しい教育の質の悪化をもたらす可能性がある」(教員の過重労働、教員の非正規化)という冷静な指摘には、考えさせられるものがある。何でも、うまい話はないものだ。

 そして第3章。教育政策はムードではなく、科学的で客観的なエビデンスに基づく必要がある。アメリカの教育界で「エビデンス・ベースド」の流れを決定づけた、1966年のコールマン・レポートとその検証の記述は非常に面白かった。この章は、ほかにも各種の統計分析や実験が紹介されているが、よく分かったのは「エビデンス」を正しく読み解くは、専門的な修練が要るということだ。見せかけのエビデンスに騙されてはならないし、素人が適当に集めたデータをエビデンスと称する行為は、教育政策に限らず、あらゆる局面でもう止めたほうがいいと思う。

 しかしまた、小中高の児童・生徒を対象とした全国学力テストが、日教組を中心とする反対運動のため、1960年代から実施されてこなかったというのもくだらない話だ。現状把握がなければ、改善も改革もできないだろう。統計的エビデンスは全体の傾向を見るものに過ぎないという限界はわきまえるべきだが、積極的な活用を否定すべきではない。

 第4章では、学校教育の経済的な意義(収益率)を考える。これはまた身も蓋もない議論だと思いながら、面白かった。OECD諸国との比較では、日本は私的収益率は低い(私的に支払うコストが高いから)が、財政的収益率は高い(高等教育修了者の納める税金が多い)。これを見ると、日本の高等教育の公的負担をもう少し引き上げてもいいのではないか、という主張に納得がいく。また「国立大学選択のプロヒビット・モデル」によって、地方国立大学の存在が大学進学機会の均等に果たしてきた役割を検証する分析も、鮮やかで興味深かった。プロがデータを扱うと、こんなふうに説得力のある物言いができるのだなあ。羨ましい。
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