〇楊海英『「知識青年」の1968年』 岩波書店 2018.7
文化大革命(1966-1976)当時、1700万人もの青年たちが中国の都市部から動員されて、農山村へ送り込まれた。いわゆる下放運動である。本書は、内モンゴルや新彊などの辺境に送られた元「知識青年」たち(男女を問わない)へのインタビュー取材によって、彼らが体験したことや、彼らが残した影響を探る。
本書カバーの折り込み、それから序章の冒頭には、中国人と少数民族との稀有な「相思相愛関係」という言葉が使われている。中国人(漢民族)は、中国こそ天下の中心で、中国人は最も文明開化した民族だという自意識を持ち、周辺に住む諸民族を「野蛮人」として見下してきた。これは歴史的な構造的対立である。けれども文革中に内モンゴル自治区に下放された青年たちは、今でもモンゴル人の善意を忘れず、内モンゴル自治区を第二の故郷だと思っている。逆も然りで、中国人が好きなモンゴル人はほとんどいないが、下放青年だけは愛すべき中国人として記憶されているという。そんなことがあるものだろうか、と半信半疑で本書を読み始めた。
文化大革命については、映画や小説で知っているつもりだったが、初めて知ったこともある。紅衛兵にも世代があって、初期の「老紅衛兵」は共産党の高級幹部の子弟だったが、文革発動から3年目の1968年、武力闘争の激化を警戒した毛沢東は、彼らを都市部から動員し、農村に「下放」することに決めた。入れ代わりに造反派の紅衛兵が台頭し、老紅衛兵の青年たちは、造反派に打倒される側になった。
モンゴル人の近代史も初めて概略を知った。19世紀末以降、中国、日本、ソ連の間で翻弄され、米ソ英が1945年に交わした「ヤルタ協定」の結果、戦後、南モンゴルは中国に帰属し、内モンゴル自治区にならざるを得なかった。文革期には、満州国に協力したモンゴル人の「原罪」が問われた。人民解放軍の支配の下、2万人以上が殺害され、多くの人々が粛清の対象となった。著者は、下放青年とモンゴル人の間には、排除され、虐待されていた者たちの同病相憐れむ精神があったのではないかと述べている。
この評価は難しい。確かに本書に登場する元「知識青年」たち(十数人くらい?)は、著者の推測を裏付ける証言をしている。しかし、それがどの程度、標準的なのか。また、多くの「知識青年」が下放先で農民たちから敵視されたのに、モンゴル人だけが優しかったという総括を、モンゴル人である著者は「自民族を美化している」と見られないよう、慎重に書いているが、やっぱり少し疑いを感じてしまう。
なんとなく腑に落ちるのは、モンゴル人の草原に押し入り、片っ端から開墾して砂漠にしていく(気候や地質が農耕に不向きな草原は、一度開墾されると砂漠化してしまう)無知で暴力的な中国農民の肖像である。オルドス(内モンゴル自治区西南部)に侵入してきたのは、貧しい陝西省北部の農民だった。中国農民の多くは、そのくらい図々しく暴力的でなければ生きていけなかったのではないか。一方、都市部の「知識青年」たちは、異なる文化、異なる生活様式に適応する能力を持っていた。モンゴル語を学び、馬や羊の扱い方を覚えた者もいる。そして暴力的な中国農民も、謙虚で礼儀正しい「知識青年」も、どちらも中国人なのである。さらに本書には、少数民族や下放青年たちに対して、幹部級の中国人がとった残虐で抑圧的な振舞いの数々も記録されている。特に女性に対する性的な抑圧は酷い。汚い話が嫌いな人は読まない方がいい。
本書を読んで思ったのは、結局「中国人」とか「モンゴル人」とかの主語で何かを語ることは、ほとんど意味がないということだ。たとえば先の戦争についても、植民地や占領地で尊敬された日本人はいただろうし、今でも親日的な人が多い地域もあるだろう。しかし、それは特定の個人あるいは特定のグループとグループの間で成り立った信頼関係でしかないのである。
どういうときに信頼関係が成り立つかといえば、やはり「やって来た」側の下放青年たちが、現地の言葉を懸命に学び、遊牧民の知識を身につけようとし、遊牧民の生き方を否定しなかったことが大きい。著者は「これは、内陸アジアの遊牧民と中国の交流史のなかでも、特異な事例といえるのではないか」と書いている。「特異」かどうかの判断は保留するが、中国国内の少数民族問題を解決するためのヒントにはなると思う。
文化大革命(1966-1976)当時、1700万人もの青年たちが中国の都市部から動員されて、農山村へ送り込まれた。いわゆる下放運動である。本書は、内モンゴルや新彊などの辺境に送られた元「知識青年」たち(男女を問わない)へのインタビュー取材によって、彼らが体験したことや、彼らが残した影響を探る。
本書カバーの折り込み、それから序章の冒頭には、中国人と少数民族との稀有な「相思相愛関係」という言葉が使われている。中国人(漢民族)は、中国こそ天下の中心で、中国人は最も文明開化した民族だという自意識を持ち、周辺に住む諸民族を「野蛮人」として見下してきた。これは歴史的な構造的対立である。けれども文革中に内モンゴル自治区に下放された青年たちは、今でもモンゴル人の善意を忘れず、内モンゴル自治区を第二の故郷だと思っている。逆も然りで、中国人が好きなモンゴル人はほとんどいないが、下放青年だけは愛すべき中国人として記憶されているという。そんなことがあるものだろうか、と半信半疑で本書を読み始めた。
文化大革命については、映画や小説で知っているつもりだったが、初めて知ったこともある。紅衛兵にも世代があって、初期の「老紅衛兵」は共産党の高級幹部の子弟だったが、文革発動から3年目の1968年、武力闘争の激化を警戒した毛沢東は、彼らを都市部から動員し、農村に「下放」することに決めた。入れ代わりに造反派の紅衛兵が台頭し、老紅衛兵の青年たちは、造反派に打倒される側になった。
モンゴル人の近代史も初めて概略を知った。19世紀末以降、中国、日本、ソ連の間で翻弄され、米ソ英が1945年に交わした「ヤルタ協定」の結果、戦後、南モンゴルは中国に帰属し、内モンゴル自治区にならざるを得なかった。文革期には、満州国に協力したモンゴル人の「原罪」が問われた。人民解放軍の支配の下、2万人以上が殺害され、多くの人々が粛清の対象となった。著者は、下放青年とモンゴル人の間には、排除され、虐待されていた者たちの同病相憐れむ精神があったのではないかと述べている。
この評価は難しい。確かに本書に登場する元「知識青年」たち(十数人くらい?)は、著者の推測を裏付ける証言をしている。しかし、それがどの程度、標準的なのか。また、多くの「知識青年」が下放先で農民たちから敵視されたのに、モンゴル人だけが優しかったという総括を、モンゴル人である著者は「自民族を美化している」と見られないよう、慎重に書いているが、やっぱり少し疑いを感じてしまう。
なんとなく腑に落ちるのは、モンゴル人の草原に押し入り、片っ端から開墾して砂漠にしていく(気候や地質が農耕に不向きな草原は、一度開墾されると砂漠化してしまう)無知で暴力的な中国農民の肖像である。オルドス(内モンゴル自治区西南部)に侵入してきたのは、貧しい陝西省北部の農民だった。中国農民の多くは、そのくらい図々しく暴力的でなければ生きていけなかったのではないか。一方、都市部の「知識青年」たちは、異なる文化、異なる生活様式に適応する能力を持っていた。モンゴル語を学び、馬や羊の扱い方を覚えた者もいる。そして暴力的な中国農民も、謙虚で礼儀正しい「知識青年」も、どちらも中国人なのである。さらに本書には、少数民族や下放青年たちに対して、幹部級の中国人がとった残虐で抑圧的な振舞いの数々も記録されている。特に女性に対する性的な抑圧は酷い。汚い話が嫌いな人は読まない方がいい。
本書を読んで思ったのは、結局「中国人」とか「モンゴル人」とかの主語で何かを語ることは、ほとんど意味がないということだ。たとえば先の戦争についても、植民地や占領地で尊敬された日本人はいただろうし、今でも親日的な人が多い地域もあるだろう。しかし、それは特定の個人あるいは特定のグループとグループの間で成り立った信頼関係でしかないのである。
どういうときに信頼関係が成り立つかといえば、やはり「やって来た」側の下放青年たちが、現地の言葉を懸命に学び、遊牧民の知識を身につけようとし、遊牧民の生き方を否定しなかったことが大きい。著者は「これは、内陸アジアの遊牧民と中国の交流史のなかでも、特異な事例といえるのではないか」と書いている。「特異」かどうかの判断は保留するが、中国国内の少数民族問題を解決するためのヒントにはなると思う。