〇『天龍八部』全50集(企鵝影視、新麗伝媒等、2021)
原作は、何度も映像化されている金庸の武侠小説。時代は北宋。宋の周辺には、女真(のちの金)、契丹(遼)、西夏、大理などの諸民族・諸王朝が勃興していた。大理国の皇帝の甥・段誉、契丹人でありながら漢人として育てられ、丐幇の幇主となる蕭峰(喬峰)、父母を知らず少林寺で僧侶として育てられた虚竹の三人は、義兄弟の契りを結び、それぞれ武功の奥義を窮め、愛する女性に出会い、自身の出生の秘密を知って、運命に翻弄されていく。
古い話から始めるが、私が初めて出会った『天龍八部』は、ドラマの2003年版である。当時、スカパーで『射鵰英雄伝』を見て、世の中に「武侠」というジャンルがあることを知り、続けて『天龍八部』を見た。こちらは『射鵰』に比べると物語が複雑で、私の中国語力では十分理解できた自信がなく、あとで小説の日本語訳を読んで理解を補ったが、名作ドラマに出会ったという記憶は長く残っていた。
2013年に久しぶりにドラマ化されたことは知っていたが、評判がよくないので見なかった。この最新版も、当初、中国視聴者の評価はかなり低かったが、期待せずに見てみた。結果は、それなりに楽しめたと思う。
男性主人公のうち、蕭峰は圧倒的に2003年版の胡軍がいい。段誉もやっぱり2003年版の林志穎だろう。虚竹は、2003年版の高虎の印象があまり残っていないので、最新版の張天陽を推す。特に武芸を身に着ける前の、純朴で愚鈍な虚竹がチャーミングだった。第四の主人公である慕容復は、従妹の王姑娘をめぐって、段誉の恋のライバルとなる。2003年版では修慶が嫌味たっぷりに演じていたが、最新版ではあまり重きを置かれていない様子だった。
女性陣では、阿朱の劉涛、王姑娘の劉亦菲は、やはり圧倒的に2003年版がよい。最新版は、このヒロインポジションに魅力ある女優さんを配役できなかったのが痛いと思う。悪女陣は、けっこうハマっていた。阿紫の何泓姗、天山童姥の曾一萱は、宮廷ドラマの悪女役よりも生き生きして、楽しそうに見えた。木姑娘を演じた劉美彤(『慶余年』の北斉皇帝!?)は、本作随一の正統派の美人さん。このひとを阿朱か王姑娘というのはなかったのかなあ。
その他、最新版でわりと好きだったのは、チベット僧・鳩摩智の朱暁漁。過去作品では、いかにも強敵らしい醜怪な造形だったので、本作はイケメン過ぎるという意見も見たが、これはこれでよいのではないか。全体に悪役の造形、残酷なエピソードが薄味だったのは、時代の要請だろうか。
近年、中国古装劇のアクション撮影テクニックはずいぶん進化したと思う。本作の見せ場、たとえば、段誉と西夏武士の李延宗(正体は慕容復)の対決とか、少室山(嵩山)での丁春秋と虚竹、段誉と慕容復の対決は、スピーディでけれん味たっぷりでわくわくした。また、江南の水辺から西北の荒れ地まで、変化の多い自然風景を楽しめるのも金庸ドラマの醍醐味である。
だが、私が物足りなく思うのは、主人公・蕭峰の民族アイデンティティへの拘りが薄いこと。2003年版の蕭峰は、漢人として契丹を敵視していたにもかかわらず、実は自分の両親が契丹人で、漢人に殺害されたと知って苦悩する。その苦悩の深さが、彼に寄り添おうとした阿朱に死を選ばせたと私は思うのだが、最新版は、この蕭峰の悲劇性が弱い。
その後、蕭峰は遼(契丹)に身を投じ、遼皇帝の耶律洪基に重用されるが、耶律洪基が宋に攻め入ろうとするのを止め、「二度と国境を侵さない」ことを約束させる。このとき、最新版の蕭峰は「遼人にも宋人にも、民の安寧こそが大事」という平和主義者的な理屈で、義兄弟である遼皇帝を切々と口説く。そして不戦の約束を得ると、遼の重臣としての不忠、宋で養育されながら遼に仕えた不孝、さらに武林で様々な騒ぎを起こした不仁と、自分の罪を数え上げて自決する。う~ん、分かりにくくないかな。
気になって、youtubeで2003年版の最終回を見直してみたら、こっちの蕭峰は、理屈は同じでもかなり強圧的に遼皇帝に迫り、遼皇帝は怒りをこらえて「契丹人一諾千金」と明言し、剣を折る。そして蕭峰は、契丹人としての不忠を償って自決するのだ。遼軍の撤兵を確認した蕭峰が、満足気な笑みを浮かべて最期につぶやく「我們契丹人一諾千金」に泣いた記憶がよみがえる。このへんが最新版は、どうもふわふわしている。最後を仏教の無常思想につなげるのも、あまり説得力が感じられない。
なんだか2003年版を全編あらためて見直したくなってしまった。しかし2021年版で初めて『天龍八部』に出会う日本の中国ドラマファンも多いことだろう。どんな反応が起きるか、注目したい。