〇坂井修一『森鴎外の百首』(歌人入門) ふらんす堂 2021.8
森鴎外の詩歌百首を選び、200~250字くらいの短い鑑賞文を付したもの。短歌だけではなく、訳詩、創作詩も含む。ただし長いものは、短歌と同程度の数行が抽出されている。年代順に『於母影』(1889/明治22年)に始まり、鴎外最後の文学作品と言われる『奈良五十首』(1922/大正11年)に至り、「常磐会詠草」から2首を付け加えて終わる。百首を通じて、文芸作家としての鴎外の人生、明治から大正の日本の歴史を追体験する趣きがある。
中学生高校生の頃、鴎外の小説はとっつきにくくて、どれも駄目だった。それが不思議なもので、中年(40代)になってから、職場の同僚に勧められたのがきっかけで、『渋江抽斎』などの歴史小説をいくつか読み、ロマンチックで幻想的な怪談アンソロジーを読み、『うた日記』に日露戦争の従軍体験を歌った詩があることを知り、『奈良五十首』は気に入って繰り返し読んだ。しかし、自分と相性のいいところばかりつまみ食いしてきたので、鴎外の本領には出会ってこなかった気がする。
本書のありがたいところは、鴎外の訳詩をたくさん採っているところで、著者が巻末の解説「テエベス百門の抒情」に「短歌だけ選んで解説したのでは、この巨人の抒情詩人としての魅力を伝えきれない」「(鴎外自作の詩歌には、優れて良いものがたくさんあるが)鴎外の詩の翻訳は、これらをはるかに陵駕して凄い」と書いているとおりである。
私は『於母影』や『沙羅の木』に収録されている訳詩も『ファウスト』翻訳も、ほぼ初めて読んだ。さすが『於母影』は格調高い。それに比べると『ファウスト』や『沙羅の木』は、格調や音律を崩さず、自在に口語を入れ込んでいるところに手練れを感じる。中には、普通の口語なのに詩歌として成立しているもの「海に漂ってゐる不思議な鐘がある。/その鐘の音(ね)を聞くのが/素直な心にはひどく嬉しい。」もあって、その言語感覚の鋭敏さに唸る。この訳詩(の一部)を、著者は「鴎外訳の中でも、最も美しい詩句のひとつ」と評価している。
著者には訳詩ほど評価されていない鴎外の創作短歌も、初めて読む私には面白かった。『沙羅の木』「我百首」の、あまり技巧を弄せず、目の前を光景を上から下へ読み流したような歌が好きだ。「大多数まが事にのみ起立する会議の場(には)に唯列び居り」「『時』の外(と)の御座(みくら)にいます大君の謦咳(しはぶき)に耳傾けてをり」など。後者は御前会議か何かの儀式で天皇陛下の咳払いを聞いたというもの。
伝統的な和歌にはない、ちょっとドキリとする漢語を据えたものもよい。「善悪の岸をうしろに神通の帆掛けて走る恋の海原」など。突如として妄想が全開するものもある。「書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(をみな)来てわが読みて行く字の上にゐる」は、明恵さんか澁澤龍彦を思わせる。
そして最晩年の『奈良五十首』は、あまり尖った表現はないけれど、余裕とユーモアが感じられて好ましい。本書は、鴎外という巨人がたどった足跡を、さっと概観するための入門書としても好適だと思う。