〇原武史『歴史のダイヤグラム:鉄道に見る日本近現代史』(朝日選書) 朝日新聞出版 2021.9
朝日新聞土曜別刷り「be」に2019年10月から2021年5月まで連載されていたコラムに加筆修正し、新たに構成してまとめたものだという。本書の章立ては「移動する天皇」「郊外の発見」「文学者の時刻表」「事件は沿線で起こる」「記憶の車窓か」となっているが、巻末のリストを見ると、掲載時はもっとランダムに話題が選ばれていたようだ。
テーマ別にまとめたのがよかったかどうか、個人的には最初の「移動する天皇」は、帝国日本の天皇の権威と鉄道の結びつきを繰り返し意識させられるため、やや重たく感じられた。もっとも、紹介されている逸話は、些細な、つまらないものも多い(だから大事とも言える)。昭和大礼の御召列車の運行にあたって、すれ違う列車の便所は使用禁止になり、停車駅構内の便所は幕で覆われたとか。東海道本線と立体交差する鉄道では、送電そのものをとりやめた私鉄もあったとか。
「郊外の発見」は、京都市営地下鉄や阪急の話題もあるが、小田急線、京王線、横須賀線など、東京西部と神奈川東部の話題が圧倒的に多い。著者の生活圏の関係かもしれないが、私も同じエリアに住んできたので親しみを感じた。京王線の聖蹟桜ヶ丘は明治天皇に由来するのか。大岡昇平の妻・春枝が夫の出征を見送るために上京した際、夕暮れの大船観音が怖かったというのは分かる気がする。
「文学者の時刻表」では、文学作品や文学者の日記・エッセイなどから拾った話題を紹介する。著者が、当時の時刻表や路線図を丁寧に検証しているのが面白い。三島由紀夫の『春の雪』に、導入されたばかりの中央の婦人専用車が描かれているなんてすっかり忘れていた。谷崎潤一郎の「旅のいろいろ」には、東京から大阪へ帰る際、夜行の普通列車を好んだことが記されている。名古屋までは家の建て方や自然の風物に東京の匂いがするけれど、名古屋を越すとはっきり関西の勢力圏に入る。だから名古屋あたりで目を覚ますと、窓の外がすっかり関西の景色になっているのが気持ちいいというのだ。この感性、さすがだと思う。また、靖国神社の臨時大祭へ列席する遺族を乗せた専用臨時列車で、山口誓子が見た女性の姿は、短編小説のようだった。
「事件は沿線で起こる」には、著名人が書き留めた車中の会話の数々が紹介されている。「あとがき」にも言うとおり、鉄道は、全く予期せぬ人々とのコミュニケーションを引き起こす、「誤配」の可能性に満ちた公共空間なのだ。分かる。
初代鉄道院総裁をつとめた後藤新平が米原付近で脳溢血に襲われ、入院先の京都府立医科大医院で死去したことは知らなかった。東村山の全生病院のハンセン病患者が、中央線・東海道本線を使って、極秘で岡山の長島愛生園へ輸送されたことも。実は1968年の「新宿騒乱」も、当時小学生だったが覚えていない。1974年の三菱重工ビル爆破事件は思えているが、その爆弾が、昭和天皇が乗った列車を爆破しようとした虹作戦で使われるはずだったものだというのも知らなかった。鉄道は、本当にさまざまな近現代史の舞台となっている。
「記憶の車窓から」は、著者の個人的な記憶・体験が色濃く反映された文章を集めている。高校一年生の北海道旅行で、倶知安駅前の天ぷらそばの自動販売機に空腹を救われた話は、本書の白眉だと思う。2010年に再び倶知安を訪れたとき、胆振線は廃止されて久しいのに、自動販売機がまだ存在していたという後日談を含めてとても好き。高校時代の友人と福島県の熱塩に行った話もよい。鉄道旅行の大先輩である内田百閒が、少年時代の旅の思い出を書いた随筆の趣きがある。
最後を締めくくるのは食堂車の思い出。そうそう、むかしの食堂車のメニューって割高だったなあ。いまのJRのクルーズトレインは、最低でも数十万円らしい。一生縁がなさそうだ。近鉄の観光特急「しまかぜ」だったら、多少現実味があるだろうか。