〇佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書) 文藝春秋 1998.11
今年の大河ドラマ『青天を衝け』をかなり楽しんで見ている。10月の半ば頃だったか、終盤のキャストとして、栄一の息子の渋沢篤二役や孫の渋沢敬三役の俳優さんが発表された。そのあと、SNSで本書が面白いという情報を見た。佐野眞一さんは実業人の評伝の名手なので、そりゃあ「日本資本主義の育ての親」渋沢栄一を描いても面白いに違いないと確信した。
しかし渋沢家三代とは? 著者は本書の前に『旅する巨人』と題して、民俗学者・宮本常一の評伝を書いている。その宮本を物心両面で援助し、民俗学をはじめとする我が国の学問発展に陰徳を重ね続けたのが渋沢敬三だった。この人格は一体どこから生まれたのか、という疑問から、著者の関心は、栄一・篤二・敬三の渋沢家三代、百二十年あまりの歴史に向かうことになる。
全7章のうち、1~3章は、ほぼ栄一の一人舞台である。血洗島の「中ノ家」に生まれ、藍玉の製造と販売を父に学び、尊王攘夷思想に触れ、縁あって一ツ橋家に仕官する。明治以降、新政府や実業界での活躍も含め、今年の大河ドラマの展開とほぼ一致しており、本書が直接のネタ本なんじゃないか?とさえ感じた(実際は、渋沢の回顧録など共通の資料に拠っているためだろう)。
ただし本書には、ドラマが明確に描かなかったエピソードも登場する。血洗島の本家筋である「東ノ家」は、つねづね「中ノ家」を見下す態度を取っており、両家の確執は長く続いたようだ。「東ノ家」の当主は代々金儲けに励み、莫大な富を蓄えたが、これを一代で蕩尽したのが長忠(六代宗助)で、その息子が長康、長康の弟・武の息子が澁澤龍彦である。著者は、栄一が父の市郎右衛門から受け継いだ「現実的合理主義的精神」と「几帳面で勤勉な体質」とともに、渋沢家には「間歇的に、とんでもない遊蕩の血」が現れると指摘し、その血は特に「東ノ家」に色濃く流れていたと述べている。「血」という表現は不適当かもしれないが、そう言いたくなる気持ちは分かる。
栄一の嫡男・篤二には、この「遊蕩の血」が発現したということになるのだろう。篤二は熊本の五高在学中に「大失策」(詳細は不明だが遊所への耽溺か)を引き起こし、渋沢家の意向で退学させられ、血洗島で謹慎生活をおくることになる。このとき、「東ノ家」の長忠、長康父子と親しく交わった。その後、篤二は、栄一の選んだ公家の娘、橋本敦子と結婚。長男の敬三、次いで次男三男も生まれ、しばらく平穏な日々が続くが、芸者あがりの女性・玉蝶とのスキャンダルが発覚する。
廃嫡処分となった篤二は、渋沢一族に買い与えられた白金の土地(現在の松岡美術館のある場所!)の妾宅で、玉蝶こと岩本イトと遊芸放蕩の余生をおくった。一方、栄一は孫の敬三を渋沢宗家の当主に指名する。動物学に強い関心を持っていた敬三だが、七十を過ぎた祖父の栄一に頭を下げられ、東大法科経済科に進み、卒業後は横浜正金銀行に入行する。将来は第一銀行に入ることが決まっていた。
その後、敬三は戦時中に日銀総裁を務め、戦後の幣原内閣で大蔵大臣に就任し、半年あまりの在任中、預金封鎖、新円切り換え、財産税導入などの大ナタをふるう。このへん、本書の記述は駆け足なのだが、もう少し詳しく知りたいと思った。財産税に代えて、屋敷の物納と財閥指定を受入れ(実態は財閥と呼べる規模の資本金は所有せず)、渋沢同族株式会社は解散する。敬三は銀行業務のかたわら、学問発展の支援に情熱を傾けた。大正12年(1921)に発足させたアチック・ミューゼアムは、国立民族学博物館の源流ともなっている。
私は、たぶん神奈川大学日本常民文化研究所(行ったことはない)の展示企画で「アチック・ミューゼアム」と渋沢敬三という名前を知った気がする。政治家・実業家のかたわら、民具や玩具を蒐集していたと聞いても、なるほど金持ちの道楽かと思ったくらいで、学問の道を放棄させられた挫折を、地道に克服し続けた成果だとは考えもしなかった。一族の期待に応え、運命を恨まず、しかし自分のやりたいことも貫いた敬三は、強い精神の持ち主だと思う。
篤二は、渋沢一族の重すぎる期待と過保護過干渉に潰されてしまうわけだが、その弱さを責めることはできない。幼くして母を失い、多忙な父の栄一に代わって篤二の面倒をみていたのは「厳格を絵にかいたような姉夫婦」(歌子と穂積陳重)だったという。才媛の誉れ高い歌子だが、本書に引用されている日記記事を読むと、父・栄一を尊敬し、渋沢家を絶対視する気持ちが強くて、これは篤二、つらかったろうなあとしみじみ同情する。さて、大河ドラマはこのあたりをどこまで描くだろうか。