〇辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』(岩波新書) 岩波書店 2021.11
江戸の学びは、素読という「型にはまった」学びを前提としながら、なぜ豊かで個性的な思想を生み出すことができたのか。本書は7人の思想家を取り上げ、「学び」と「メディア」の観点から考える。
山崎闇斎は、訓詁注釈に堕した明代四書学を拒絶し、真の朱子学の「体認自得」を求めた。言葉や理論ではなく、身体レベルでまるごと朱子の思想に参入しようという主張である。「自分が朱子その人と同じになりたかった」という表現は言い得て妙だ。そのため、闇斎は講釈(パフォーマンス)を重視し、門人たちは、師の言葉の筆記録を伝写し続けた。なお、闇斎が訓詁注釈から方向転換するにあたり、朝鮮の李退渓に大きな影響を受けていることは初めて知った。
伊藤仁斎は、朱子学の「敬」を求めて思索に沈潜した結果、行き詰まり、「人倫日用」の思想に回帰する。そのメディアとして選ばれたのは同志会における会読で、対等で共同的な議論の成果に基づき、仁斎は自著を生涯アップデートし続けた。ここに京都町衆の文化サロンの伝統を見る指摘は、とても首肯できる。
荻生徂徠は、「耳に由る」講釈ではなく「目に由る」読書を重視し、積極的に自著を出版した。これは、徂徠が青年期、江戸を離れ、草深い南総で書物だけをたよりに独学した経験によるのではないか。また徂徠が、個を超えた社会全体の側から「道」(安天下の道)を構想したのは、若年期に村落共同体(南総)と大衆社会(江戸)という、異なる二つの社会を体験したことが一因ではないかともいう。
貝原益軒は、「民生日用」の書を平明な和文で著すことを志した。経学に関する著書は少ない(ほぼない)が、地誌、紀行、本草、礼法など、膨大な著作を出版している。そして、和文の本で教養を身につける文化的中間層(漢文を読む知識人層ではない)の厚みが、益軒のメディア戦略を成功に導いた。余談だが、明治初年、聖書の翻訳文体を探していた宣教師たちは、益軒本を参考にしたという。あと、そもそも益軒は儒者(朱子学者)なのか?という疑問に対して、著者が「私見では、益軒はどこから見ても朱子学者である」と断言しているのも興味深い。
石田梅岩は、丁稚あがりの奉公人で「耳学問」で学問に志し、忽然として人の道を悟り、講釈を始める。師の講釈を組織化し、不特定多数の聴衆に「心学道話」を語る劇場空間を提供することで、教化運動を全国に拡大したのが門人の手島堵庵である。なお、寛政の改革を主導した松平定信は、伝統的な共同体から排除された民衆の教化に石門心学を活用しようとした。寛政の改革は「たんなる封建反動や思想統制策ではない」「民心も視野に入れた構想力豊かな改革であった」という著者の評価が気になる。
本居宣長は、古代の声のことばである「やまとことば」の復元に努め、和歌を詠み続けた。和歌を(声に出して)詠み、会衆の共感を引き出す行為を通じて『古事記』の世界に参入できると考えたのだ。一方で宣長は書斎の人で、出版にも熱心であり、「声と文字の相克」がうかがえるという。
平田篤胤は、民衆の信仰世界を正統の記紀神話の世界につなぎ、新たな神道の語りを構築した。篤胤は自ら各地に赴いて講釈活動を重ね、門弟たちは師の講説の聞書本を出版し、それをテキストにした読書会や勉強会が営まれた。こうして平田国学は、民衆を基盤とした尊王攘夷の政治活動の一翼を担うことになる。
こうしてみると、通史的にも、また一人の思想家の中でも、学びのメディアとして「声」と「文字」が拮抗し、バランスの針が一方に振れては戻る様子が感じられる。また、成功したメディア戦略の背景には、必ず社会構造の画期(識字層の増加や共同体の動揺など)があるように思う。
本書は、上記7人の思想家の分析の前段として、江戸時代の標準的な学びの姿を概観している。都市・村を問わず、普通の人々が文字(と算数)の学びを必要とした社会だったこと、手習塾で学ぶのは「御家流」で統一されていたことなど、興味深く読んだ。いまの初等教育の、文字を正しくきれいに「書くこと」への拘りは、このへんに淵源がありそうである。
最後に本書は、江戸の漢学世代が如何に西洋近代に向き合ったかを、明六社、中村敬宇、中江兆民というケーススタディを通じて語り、唐木順三のいう「型を失った」明治第二世代の問題は、依然として現代に生きる我々に突きつけられていることを示して終わる。