〇国立歴史民俗博物館 企画展示『学びの歴史像-わたりあう近代-』(2021年10月12日~12月12日)
下調べなしに出かけたので、いい意味で戸惑うところが多かった。タイトルだけ見て、近世の寺子屋から近代の学制の誕生あたりがテーマなのかと推測していたが、全然違った。いま、歴博ホームページの企画趣旨を読み直したら、「狭義の『教育史』ではなく(中略)さまざまな切り口から展示を構成し、近代における『学び』の意義を考え」「教育や学知を通じて『国民』が生み出されていく過程を多面的に明らかにする」とちゃんと書いてあった。
始まりは維新前夜。日本列島の人々(まだ「日本人)と呼ばないところにこだわりを感じる)が世界や日本についての知識をどのように獲得し深めていったか。また、その合わせ鏡として、欧米の人々が日本をめぐる情報を獲得していったかを考える。特に後者、日本の地理情報がどのように伝わり、日本で作成された地図の輸出や、西洋の探検船の測量によって、徐々に正確化していく過程がとても興味深かった。
そして明治維新が到来するが、ここでは明治の文化・教育・政治・産業等における旧幕臣の役割に注目する。今年の大河ドラマ人に合わせたように、渋沢栄一関係資料もあり。慶応2年の武鑑には、開成所や天文方の職員も載っているのだな。あと、明治2年、旧幕臣の宮本小一を外務権少丞に任じた辞令書、ちゃんと日付の上にかぶせて朱角の太政官印が押してある(正しい形式!)。名前が藤原小一になっているのは、当時の「氏名」の混乱の反映かな。
人々の「近代」あるいは「文明」への欲望を掻き立てる場となったのが博覧会。博覧会が開かれたのは、東京や大阪ばかりではない。わりと最近、「奈良博覧会」の存在を知ったばかりなので、地方博覧会の一覧が興味深かった。「明治初期の博覧会は、その趣旨が必ずしも明確ではなく」「なかば暗中模索」というのは、当たっている気がする。しかし明治10年代に入ると、博覧会は明確に勧業政策と結びつくようになる。
19世紀には、コレラなど急性伝染病の流行が世界規模で繰り返し起こり、さまざまな葛藤や軋轢を生んだ。また「癩」と呼ばれたハンセン病患者に対しては、治療法が明らかでないまま隔離政策がとられた。いまも各国立療養所に建つという貞明皇太后の「御歌」碑、療養者の自治組織による芝居上演、雑誌発行、キリスト教信仰の記録など、考えさせられる点が多かった。
そして「アイヌが描いた未来」と題して、アイヌ民族にとっての近代日本教育制度について、1章を立てて扱う。ここは知らないことばかりだった。『魯語文法規範』(静嘉堂文庫所蔵)の校閲者として名前が見える蝦夷通詞(アイヌ語通詞)の上原熊次郎(有次)は、ゴロヴニンからアイヌ語を介してロシア語を取得したという。え、ゴロヴニン(ゴローニン)はアイヌ語ができたのか?
開拓使はさまざまなアイヌ教育策を実行した。百名規模を東京に移住させ就学させる計画もあったが、2年半ほどで大半の者が帰郷を希望し、取りやめになったとか。呆れる。札幌区対雁(ついしかり)学校(江別市か?)は、サハリンから強制移住させられた樺太アイヌの児童を対象に設置された小学校だが、同校に入学した和人児童の親たちが、アイヌ児童との共学を嫌って分校の設置を要請した文書が残っている(北海道立文書館)。
一方、学校教育で獲得した「学知」をツールとして、「保護地」の自主管理を求めるなど、行政とわたりあうアイヌも現れた。アイヌ文化を発信したり、アイヌ民族自身の学校を設立しようという動きも起こる。キリスト教伝道者のジョン・バチラー(バチェラー)は、アイヌ民族への布教に尽力し、複数の「アイヌ学校」を運営した。北海道大学植物園内にあるバチェラー記念館の人か! このセクションは、北大附属図書館の所蔵資料がたくさん出ていて(アイヌ語訳新約聖書など)感心した。
※小川正人「札幌からアイヌの歴史を考える-中央区北3条西7丁目の20世紀-」(開発こうほう2021/6 北海道開発協会)(PDFファイル)
アイヌに比べると沖縄の扱いは軽かったが、明治20年代の学校を描いた『八重山風俗図』(亜鈴体操)には目を見張った。安野光雅さんの絵本のような、懐かしくて美しい作品だ。最終章は「聴く展示」の試みで、展示のQRコードを自分のスマホでよみとると、小学唱歌を聴くことができる。そうと分かっていればイヤホンを持っていったのだが…ふだん持ち歩かないので会場では聞けなかった。最後に奉安殿と御真影の資料も展示されているが、ちょっと先を急ぎ過ぎではないかと思った。