見もの・読みもの日記

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日常と非日常/鉄道と美術の150年

2022-12-20 21:02:14 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京ステーションギャラリー 『鉄道と美術の150年』(2022年10月8日~2023年1月9日)

 2022年は日本の鉄道開業150周年に当たる。奇しくも「美術」という語が初めて登場したのも明治5年(1872)のことだった。本展は、鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかにする。いや、ひとくちに「さまざなま視点」というけれど、どうすれば、こんなに幅広く面白い作品を掘り出してくることができるのか。

 まずは鉄道の日本伝来から。安政元年(1854)の摺り物『亜墨利加蒸気車 献上之品物』は、ペリー提督を介して幕府に贈られた蒸気機関車を描く。カマボコ形の客車の屋根に「遊山屋形船」と注釈がついているのが面白かった。それから、歌川芳虎、広重(三代)、月岡芳年ら明治の浮世絵師たちが描いたさまざまな蒸気機関車。全くウソ(空想)に基づくデザインもある。本展に先立って、旧新橋停車場の鉄道歴史展示室で見た展示によれば、日本に導入されたのがイギリス型だったが、浮世絵にはアメリカ型もよく描かれた。最前部に牛除け(カウ・キャッチャー)が付いているのがアメリカ型だという。ああ、子供の頃、私が絵本の挿絵を真似して描いていたのは、アメリカ型だったな。

 勝海舟に墨画の『蒸気機関車運転絵』があるのは知らなかった。高橋由一の『写生帖』に、蒸気機関車(?)からたなびく煙が描かれているなんて、いったい誰が見つけたのだろうか。このほか、登場する画家は、河鍋暁斎、小林清親など。鹿子木孟郎の『瀧の川村字田端』(府中市美術館)や『津の停車場(春子)』(三重県立美術館)も好き。五姓田義松の『駿河湾風景』(笠間日動美術館)もよかった。これらの作品では、鉄道は明治日本の風景に調和して溶け込んでいる。

 印象的だった作品のひとつは都路華香の『汽車画巻』(個人蔵、1899年)で、一等、二等、三等の客車とホームを行き交うさまざまな人々が描かれている。着飾った洋装の婦人と紳士、軍人や学生、僧侶や母子連れだけではない。西洋人、辮髪の清国人、朝鮮人(たぶん)、伝統衣装のアイヌもいるのだ。画家が見ていた現実なのか理想なのか、よく分からないが面白い。確かに鉄道は、社会のダイバーシティを映し出す場所だと思う。

 赤松鱗作『夜汽車』は、鉄道車両独特の匂いを感じさせるような作品。人間の体臭や食べ物の匂いを消してしまうような、風に当たる鉄の匂い、嫌いじゃない。不染鉄の『山海図絵(伊豆の追憶)』は、解説を読んで何度か見直さないと、中央に鉄道が描かれていることに気が付かなかった。この頃(1930年前後)から、鉄道や機関車を「反自然的なもの」として描く作品が増えていくように思う。しかし、ヨーロッパの同時代の美術にあるような「スピード」「モダン」の美学を表現した作品は少ない。杉浦非水の『上野浅草間開通』や里見宗次の『JAPAN』のポスターくらいだろうか。むしろ日本の鉄道は、谷中安規(風船画伯!)や川上澄生の版画の中で、幻想や郷愁を掻き立てるほうが似合っている気がする。

 戦争から戦後へ。伊藤善『東京駅(爆撃後)』は、屋根の吹っ飛んだ状態の東京駅舎を描いた油彩作品(1946年頃)。佐藤照雄の『地下道の眠り』は、戦災孤児や浮浪者の姿を木炭・鉛筆でスケッチした連作である。その後も鉄道は、さまざまな日常と非日常、生活とアートパフォーマンスの舞台となる。Chim↑Pomが、岡本太郎の壁画『明日への神話』の一部に設置したパネルは、ちゃんと岡本太郎記念館で所蔵されていることを知った。

 見終わってぼんやり考えたのは、鉄道の未来である。50年後、100年後、たぶん社会における鉄道の存在価値は次第に薄れていくのではないか。とりあえず自分は「鉄道と美術の150年」を味わえる世代でよかった。


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