○黒木登志夫『研究不正:科学者の捏造、改竄、盗用』(中公新書) 中央公論新社 2016.4
研究不正の防止について、文科省が大学に対し、うるさく対応を求めていることは知っていた。しかし、個人的には、2014年にSTAP細胞問題があったなーくらいの関心しかなかったので、そんなに重大視する意味が分かっていなかった。そうしたら冒頭で、研究不正や誤った実験などにより撤回された論文のワースト10に2人、ワースト30に5人も日本人が名を連ねており、他を圧倒するワースト1位も日本人である、という事実を知って、かなり衝撃を受けた。ノーベル賞の受賞者数(21世紀に入ってから13人、アメリカに次いで2位)のような「よい数字」に比べると、日本が研究不正大国として、世界から残念な注目を集めていることは、あまり知られていないのではなかろうか。
本書は全体で、42の研究不正の事例を紹介している。これだけ並ぶと「研究不正」って、世界中でけっこう日常的に起きているんだなあと感じる。アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、中国、韓国、日本など、舞台となった国はさまざまである。研究分野は、医学・生命科学が最も多いが、数学や物性物理、心理学や考古学の例もある。考古学の不正というのは、実害が少ない分、笑ってしまうようなところがあるが、その動機は、母国の歴史を少しでも古く見せたいとか、メディアを驚かす大発見をしたいとか、科学者としての誠実さ(integrity)に欠けるもので、やっぱり笑ってすませるわけにはいかない。
稀代の論文泥棒とか、「小説を書くごとく」ねつ造論文を発表し続けた麻酔科医(日本)とか、天性のペテン師としか思えない人物もいる。一方、同情を禁じえなかったのは、リン酸化カスケードを提唱したラッカーとスペクター。スペクターの実験に再現性がないことから、ねつ造が発覚した。しかし、それから12年後、リン酸カスケードが真実であることが確かめられた。著者いわく、スペクターがこれを理論として発表し、その証明を実験者に任せていれば天才といわれたであろう。だが、生命科学の世界では「理論だけではサイエンスとして認められない」のだそうだ。なるほど…このことは、生命科学者が実験データを「お化粧」したくなる大きな要因なのだろう。
しばしば研究不正は、研究者個人の問題を越えてしまう。ES細胞をめぐる韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)事件は、韓国のマスコミと国民感情が融合した「集団ヒステリー」を引き起こした。卵子入手の違法性が報道されると、卵子を提供するという女性が1000人を超し、ねつ造を「敵対組織の陰謀」として(抗議の?)焼身自殺するものまで現れたという。ほんとかいな。熱狂は科学の敵であるなあ。私は、日本のSTAP細胞事件についても、本書によって、ようやく詳細を理解した。まわりの研究者が、なぜHOにだまされたのか、著者が「少しは分かったような気がした」と書いているところがある(122頁)。HOの資質として「プレゼンテーションが上手でCDB(発生・再生科学研究センター)の執行部を感心するくらいだった」「その一方、彼女の知らないような話をすると怒るので、怒らせないよう会話に気をつけ、誰も研究の話をしないようになった」という記述のあとにあるのだが、え、そんなことで分かっていいの? 科学者ってそんなに簡単にだまされるの?
あらためて惜しまれるのは、笹井芳樹氏の自殺である。私はSTAP細胞事件ではじめて笹井氏の名前を知った門外漢だが、ES細胞、iPS細胞から脳や眼のような複雑な臓器をつくる研究で世界をリードし、2012年のネイチャー誌は「ブレイン・メーカー」という名前でその業績を紹介していたという。でもそれ以上に、著者のいうとおり「人々が科学と科学者を信用しなくなり、わが国の科学は世界からの信用を失った」ことの損失は計りしれないと思う。
本書の後半では、研究者がなぜ不正をするのかが論じられている。自然科学の世界は競争社会であるから、よい研究をしなければならない。よい研究かどうかは、論文が掲載されたジャーナルから判断できると人々は信じている。よいジャーナルかどうかは論文の引用が指標となる。超一流のジャーナルに発表論文があれば、研究費が獲得しやすい。研究費(外部資金)獲得競争に勝たなければ研究ができない。と、書いてしまうと、実に身も蓋もないのが、いまの研究者たちの置かれている環境である。競争は進歩の原動力であると同時に、研究不正を引き起こす素地にもなっていると著者は指摘する。
また、研究不正を監視する論文審査(ピアレビュー)の効力、ソーシャル・メディアによる監視の威力と限界、ネット公開ジャーナルの是非(審査基準が甘い)など、ざまざまな今日的課題について、具体的な実態と、研究者がどう考えているかを知ることができた。これから研究者になろうという学生や、研究者のそばでその支援に携わっている人たちにぜひ一読を勧めたい。
研究不正の防止について、文科省が大学に対し、うるさく対応を求めていることは知っていた。しかし、個人的には、2014年にSTAP細胞問題があったなーくらいの関心しかなかったので、そんなに重大視する意味が分かっていなかった。そうしたら冒頭で、研究不正や誤った実験などにより撤回された論文のワースト10に2人、ワースト30に5人も日本人が名を連ねており、他を圧倒するワースト1位も日本人である、という事実を知って、かなり衝撃を受けた。ノーベル賞の受賞者数(21世紀に入ってから13人、アメリカに次いで2位)のような「よい数字」に比べると、日本が研究不正大国として、世界から残念な注目を集めていることは、あまり知られていないのではなかろうか。
本書は全体で、42の研究不正の事例を紹介している。これだけ並ぶと「研究不正」って、世界中でけっこう日常的に起きているんだなあと感じる。アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、中国、韓国、日本など、舞台となった国はさまざまである。研究分野は、医学・生命科学が最も多いが、数学や物性物理、心理学や考古学の例もある。考古学の不正というのは、実害が少ない分、笑ってしまうようなところがあるが、その動機は、母国の歴史を少しでも古く見せたいとか、メディアを驚かす大発見をしたいとか、科学者としての誠実さ(integrity)に欠けるもので、やっぱり笑ってすませるわけにはいかない。
稀代の論文泥棒とか、「小説を書くごとく」ねつ造論文を発表し続けた麻酔科医(日本)とか、天性のペテン師としか思えない人物もいる。一方、同情を禁じえなかったのは、リン酸化カスケードを提唱したラッカーとスペクター。スペクターの実験に再現性がないことから、ねつ造が発覚した。しかし、それから12年後、リン酸カスケードが真実であることが確かめられた。著者いわく、スペクターがこれを理論として発表し、その証明を実験者に任せていれば天才といわれたであろう。だが、生命科学の世界では「理論だけではサイエンスとして認められない」のだそうだ。なるほど…このことは、生命科学者が実験データを「お化粧」したくなる大きな要因なのだろう。
しばしば研究不正は、研究者個人の問題を越えてしまう。ES細胞をめぐる韓国の黄禹錫(ファン・ウソク)事件は、韓国のマスコミと国民感情が融合した「集団ヒステリー」を引き起こした。卵子入手の違法性が報道されると、卵子を提供するという女性が1000人を超し、ねつ造を「敵対組織の陰謀」として(抗議の?)焼身自殺するものまで現れたという。ほんとかいな。熱狂は科学の敵であるなあ。私は、日本のSTAP細胞事件についても、本書によって、ようやく詳細を理解した。まわりの研究者が、なぜHOにだまされたのか、著者が「少しは分かったような気がした」と書いているところがある(122頁)。HOの資質として「プレゼンテーションが上手でCDB(発生・再生科学研究センター)の執行部を感心するくらいだった」「その一方、彼女の知らないような話をすると怒るので、怒らせないよう会話に気をつけ、誰も研究の話をしないようになった」という記述のあとにあるのだが、え、そんなことで分かっていいの? 科学者ってそんなに簡単にだまされるの?
あらためて惜しまれるのは、笹井芳樹氏の自殺である。私はSTAP細胞事件ではじめて笹井氏の名前を知った門外漢だが、ES細胞、iPS細胞から脳や眼のような複雑な臓器をつくる研究で世界をリードし、2012年のネイチャー誌は「ブレイン・メーカー」という名前でその業績を紹介していたという。でもそれ以上に、著者のいうとおり「人々が科学と科学者を信用しなくなり、わが国の科学は世界からの信用を失った」ことの損失は計りしれないと思う。
本書の後半では、研究者がなぜ不正をするのかが論じられている。自然科学の世界は競争社会であるから、よい研究をしなければならない。よい研究かどうかは、論文が掲載されたジャーナルから判断できると人々は信じている。よいジャーナルかどうかは論文の引用が指標となる。超一流のジャーナルに発表論文があれば、研究費が獲得しやすい。研究費(外部資金)獲得競争に勝たなければ研究ができない。と、書いてしまうと、実に身も蓋もないのが、いまの研究者たちの置かれている環境である。競争は進歩の原動力であると同時に、研究不正を引き起こす素地にもなっていると著者は指摘する。
また、研究不正を監視する論文審査(ピアレビュー)の効力、ソーシャル・メディアによる監視の威力と限界、ネット公開ジャーナルの是非(審査基準が甘い)など、ざまざまな今日的課題について、具体的な実態と、研究者がどう考えているかを知ることができた。これから研究者になろうという学生や、研究者のそばでその支援に携わっている人たちにぜひ一読を勧めたい。