○イ・ヨンスク『異邦の記憶:故郷・国家・自由』 晶文社 2007.10
懐かしい。イ・ヨンスクさんの単行本は、『「国語」という思想』(岩波書店 1996)以来11年ぶりである。私は前著を7、8年くらい前に読んだ。ポスト・コロニアルとかオリエンタリズムとか言語帝国主義とか、そんな術語を覚え始めた頃だ。決して高ぶらない、静かな力に満ちた文体に惹かれた。ただし、迂闊な私は、著者の性別に全く無頓着だった。何年かのち、ある公開講座の対談の席に、控えめな印象の小柄な女性が現れたとき、私は初めて自分の誤解を知った。
本書は、著者の専門である社会言語学を少し離れて、比較的一般読者向けの文章を集めたものだ。その多くは書評(小説評)である。在日朝鮮人(韓国人)作家、李良枝(イ・ヤンジ)、梁石日(ヤン・ソギル)、李恢成(り・かいせい、イ・ホェソン)、あるいは、つかこうへい、フランスに亡命した韓国人作家、洪世和(ホン・セファ)などの作品を通して、越境・祖国・ディアスポラ等を語るのは、著者として妥当なセレクションであろう。
むしろ、私が強い興味を感じたのは、カミュの『異邦人』が「まぎれもない『植民地文学』である」と断じた一篇である。ひさしぶりに『異邦人』を読み返したという著者と同様、私も、高校生の頃、いっぱしの文学少女を気取って、この作品を読むには読んだ。しかし、『異邦人』の舞台がなぜアルジェリアなのか、なぜそこにフランス人の主人公がいるのか、彼はアラビア人(アラブ人)の集団をなぜ恐れるのか(植民地における支配民族が、被支配民族の怨念に対して感じる恐れではないか)など、分かるわけもなかった。実はこんなふうに「本質を読み落としている」名作文学って、たくさんあるんだろうなあ、と思った。子どもに本を読ませるときは、なるべく急がせないでほしいと思う。生半可に読んでいいことなど、滅多にない。
もうひとつ、民族差別の問題から発して、著者は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワン・カラマーゾフが子どもへの暴力を告発して語ることばを引いているのだが、これが心を打つ。いまの時代、児童虐待やDVの阻止を訴えるどんな言葉よりも鮮烈である。いわく「子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を矯正しうるというんだ?」。本物の文学と文学者の凄さを、あらためて感じた。
懐かしい。イ・ヨンスクさんの単行本は、『「国語」という思想』(岩波書店 1996)以来11年ぶりである。私は前著を7、8年くらい前に読んだ。ポスト・コロニアルとかオリエンタリズムとか言語帝国主義とか、そんな術語を覚え始めた頃だ。決して高ぶらない、静かな力に満ちた文体に惹かれた。ただし、迂闊な私は、著者の性別に全く無頓着だった。何年かのち、ある公開講座の対談の席に、控えめな印象の小柄な女性が現れたとき、私は初めて自分の誤解を知った。
本書は、著者の専門である社会言語学を少し離れて、比較的一般読者向けの文章を集めたものだ。その多くは書評(小説評)である。在日朝鮮人(韓国人)作家、李良枝(イ・ヤンジ)、梁石日(ヤン・ソギル)、李恢成(り・かいせい、イ・ホェソン)、あるいは、つかこうへい、フランスに亡命した韓国人作家、洪世和(ホン・セファ)などの作品を通して、越境・祖国・ディアスポラ等を語るのは、著者として妥当なセレクションであろう。
むしろ、私が強い興味を感じたのは、カミュの『異邦人』が「まぎれもない『植民地文学』である」と断じた一篇である。ひさしぶりに『異邦人』を読み返したという著者と同様、私も、高校生の頃、いっぱしの文学少女を気取って、この作品を読むには読んだ。しかし、『異邦人』の舞台がなぜアルジェリアなのか、なぜそこにフランス人の主人公がいるのか、彼はアラビア人(アラブ人)の集団をなぜ恐れるのか(植民地における支配民族が、被支配民族の怨念に対して感じる恐れではないか)など、分かるわけもなかった。実はこんなふうに「本質を読み落としている」名作文学って、たくさんあるんだろうなあ、と思った。子どもに本を読ませるときは、なるべく急がせないでほしいと思う。生半可に読んでいいことなど、滅多にない。
もうひとつ、民族差別の問題から発して、著者は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワン・カラマーゾフが子どもへの暴力を告発して語ることばを引いているのだが、これが心を打つ。いまの時代、児童虐待やDVの阻止を訴えるどんな言葉よりも鮮烈である。いわく「子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を矯正しうるというんだ?」。本物の文学と文学者の凄さを、あらためて感じた。