見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

明治人の見聞/清国文明記(宇野哲人)

2006-08-21 23:15:13 | 読んだもの(書籍)
○宇野哲人『清国文明記』(講談社学術文庫) 講談社 2006.5

 中国哲学の泰斗である著者(1875-1974)が、明治39年(1906)から41年までの2年間、北京に留学していたときの記録である。留学中に郷里熊本の両親に書き送った手紙をもとに(熊本日日新聞にも連載)、数編の論文を加えている。

 留学先は北京だが、旅行好きの著者は、山東、洛陽、西安、長沙、武漢、南京、鎮江、蘇州、杭州と、実に広範囲を見聞している。くだけた口語と格調高い文語の混ざった文体が楽しい。

 内容は、歴史文物の紹介がほとんどで、方角や路程を丹念に書きとめ、目についた石碑の銘文を写すなど、おおよそ客観的な描写に徹してる。しかし、さすがに万里の長城では、興奮のあまり、ウィスキーの杯を挙げ、君が代を合唱すること2回、天皇陛下万歳を連呼すること3回、というのは、帝国大学助教授らしからぬ稚気があふれていて、可愛い。と思えば、曲阜の孔子廟では、欣喜雀躍、エルサレムを望見した十字軍の兵士に自らを喩える。まあ、明治の漢学者にとってはそういうものかも知れない。

 白眉と思ったのは、洛陽から長安へ向かう途次の困難。陝州を発したところで大雨に遭い、同行の桑原君(桑原隲蔵)は熱を出し、車を引いていた3匹の馬は、疲労で動かなくなってしまう。たまたま同方向に向かう馬車があり、渋る相手を強いて、自分の車も引いてもらう。しばらく行くと驢馬に引かせた車に遭い、これにも駕して、都合5匹に車を引かせて進む。

 このあとも、いろいろとあるのだが、淡々とした漢文体のウラには、たぶん、煮ても焼いても食えないような農民とのやりとりがあったことだろう、と憶測すると、興味が尽きない。

 巻末に付けられた中国の国民思想に関する論考は、平易な書きぶりであるが、要点をついている。中国は民主的であり、自治の精神に富み、平和的(つねに文弱)である、など。あと、中国文明は同化力が強いので、「中国に行っていた者は、知らず識らずの間に中国化している」というのは笑った。そうかもしれない。
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日本を超えるNIPPON/川崎市民ミュージアム

2006-08-20 19:25:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
○川崎市民ミュージアム『名取洋之助と日本工房〔1931-45〕-報道写真とグラフィック・デザインの青春時代-』

http://home.catv.ne.jp/hh/kcm/

 恥ずかしながら、名取洋之助も雑誌「NIPPON」も知らなかった。ただ、1930年代の日本の商業美術に、惹かれるものを感じていたので、軽い気持ちで、この展覧会に出かけた。

 行ってよかった。名取洋之助(1910-1962)は、戦前戦後の日本を代表する写真家である。西欧流の「報道写真」および「編集」を定着させようと奮闘し、組写真などを多用することにより、写真でメッセージを伝達するという方向に注力した。この展覧会は、第二次大戦前、画期的なデザインと内容で高く評価されたグラフ雑誌「NIPPON」を軸に、名取洋之助と日本工房の全貌を紹介したものである。

 会場には、さまざまな図書館や資料室から集めてきた雑誌「NIPPON」全点(1~36号+特別号)が、各号の見どころ紹介とともに展示されている。たかがグラフ雑誌に、そこまでするか!?という破格の扱いであるが、そもそも製作者の意気込みも破格だった。採算を度外視し、何度でもやり直しを辞さないデザインへのこだわり、華麗な印刷、高級紙の使用。当時は、「1号発行するごとに、家1軒分なくなった」とまで言われたそうだ。

 しかし、何よりも、使われている写真がすごい。被写体は、子どもの運動会であったり、漁をする人々だったり、日本の大学生、中国の農民、アメリカの労働者であったりするのだが、どの写真にも、問答無用の魅力(チャーム)が輝いている。これは一体、何なんだろう? 被写体それ自体が輝いているのか、写真の撮り方が上手いのか、それとも、そこに施された「編集」の腕なのか? たぶん、我々が自分の目で同じ風景を見ても、写真のような輝きを発見することは出来ないだろう、と私は思う。

 我々は、写真は「真実」を写すと素朴に信じているので、少しでも「真実」と異なる写真には、「捏造」という非難を浴びせたがる。しかし、名取と日本工房が追究した「芸術的報道写真」という仕事を見ていると、「真実/捏造」という二分法が、全く無意味であることを感じた。テッサ・モーリス-スズキさんの『過去は死なない』(岩波書店 2004)を思い出していた。

 雑誌「NIPPON」は、外国向けの文化宣伝を目的とし、外務省の外郭団体から資金援助を受けて作られた。名取の志は高かったが、戦前の日本は泥沼の戦争に突き進んでいく。そして、帝国日本は破れ、雑誌「NIPPON」の仕事は、時代を超えて、今も我々を魅了する。いろいろ、考えることが多い。以下(↓)も一読をお薦め。

■閑古堂:名取洋之助と「岩波写真文庫」
http://www.kankodou.com/COLUM/natori.html
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松島日帰り周遊旅行(五太堂ご開帳)

2006-08-19 20:31:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
○五太堂~三聖堂~日吉山王神社~瑞巌寺~円通院~雄島~観瀾亭(宮城県松島町)

 松島の五大堂(五太堂)・日吉山王神社・三聖堂が33年ぶりのご開帳になった。五大堂では、秘仏の五大明王が拝観できるというので、友人と出かけた。

 東京から早朝の新幹線に乗って、10時過ぎに松島海岸着。見ると、五大堂の周りには、既に長蛇の列ができている。いやー秘仏ご開帳はいろいろ行ったが、これにはびっくり。拝観先が小さいお堂であること、ご開帳期間が短いこと(8月18~20日の3日間)、松島がネームバリューのある観光名所であることなど、いろいろ理由はあるにしてもだ。前日は最高で2時間待ちだったそうだが、我々は、幸い、30分ほどの待ち時間で、お堂に入ることができた。

 五大明王像(平安時代、重要文化財)は、どれも1メートル弱の小ぶりなお姿である。装飾をひかえた、粗い彫りが東北仏らしい。破損は少なく、(いつのものか分からないけど)赤と黒の素朴な彩色もよく残っている。「ゆっくりで結構ですから、前へお進みください」と言われても、この状態では、思うようにゆっくり拝観できず、残念。

 三聖堂は、小さな庵室で、聖観音、孔子像、達磨大師という、不思議な三聖が祀られていた。意外に面白かったのは、日吉山王神社。神社の「ご開帳」というのは、あまり経験したことがなかったが、拝殿に上がり、本殿(ご神宝の猿面が飾られている)の前まで進ませてくれた。神社の内部って、あんなふうになっているのか! それから、瑞巌寺、円通院など、松島海岸の名所を周遊。石碑の立ち並ぶ霊場・雄島(おしま)には、初めて渡った。

 昼は松島で寿司、夜は仙台で牛タン定食を食して、満足。ただ、松島の銘酒・浦霞の「ご開帳記念ボトル」、買っておけばよかったなー。寿司屋のそばの地酒ショップで見かけたのだが、瑞巌寺門前のお土産屋には無かったのである。(8/20記)

■電脳松島絵巻(松島観光協会)
http://www.matsushima-kanko.com/index.html
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ニュース・悟空台風、日本上陸

2006-08-18 21:09:16 | 見たもの(Webサイト・TV)
○新浪網:第10号強熱帯風暴”悟空”登陸日本(中国語)

http://weather.news.sina.com.cn/news/2006/0818/16485.html

 現在、熊本市付近をゆっくりと北上中の台風10号は、激しい雨を降らせているらしい。大きな災害にならなければいいが、と案じていたが、さっき、中国CCTVのニュースを見ていたら、九州の地図に「悟空」と書かれていた。

 「悟空」って。

 北西太平洋で発生する台風に、「アジア名」が付けられているという話は聞いたことがある。しかし、台風委員会に加盟する14カ国が、それぞれ異なるルールで名前をつけているので、覚えにくい。「蟻」とか「やなぎ」とか「いちじく」とか、まるでインパクトもないし。その中で「悟空」は秀逸だと思った。中国に上陸しても、さらに暴れそうである。

 以上、週末の小ネタでした。

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若冲の動植綵絵 ・第5期/三の丸尚蔵館

2006-08-17 23:06:14 | 行ったもの(美術館・見仏)
○三の丸尚蔵館 第40回展『花鳥-愛でる心、彩る技<若冲を中心に>』

http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-05-06.html

 桜の季節に始まった若冲の『動植綵絵』シリーズも、いよいよ最後である。今回の出品は、『老松孔雀図』『芙蓉双鶏図』『薔薇小禽図』『群魚図(蛸)』『群魚図(鯛)』『紅葉小禽図』の6点。

 若冲以外は何が出ているのかな?とわくわくしながら、通い慣れた会場の入口をくぐった。目に入ったのは、大きな孔雀図。応挙だ、と反射的に思った。紅白の牡丹に雌雄の孔雀をあしらった、ゴージャスな『牡丹孔雀図』は、果たして応挙だった。その隣、余白の多い縦長の画面に、雌雄の孔雀だけを描いたシンプルな対幅は、森徹山の作品だった。長い尾羽を撥ね上げ、首を落として地面の1点を見つめるようなオスの孔雀。逆に頭を上げたメスの孔雀。それぞれ、意味ありげな目線が、人間くさい。

 対比するように並べられた若冲の『老松孔雀図』は、応挙や徹山の孔雀に比べると、はかなげで弱々しい(応挙の孔雀は、脚が太くて、力も強そう)。しかし、若冲作品の、孔雀を取り囲む松と牡丹には、妖しい生命力が脈動している感じがする。

 『芙蓉双鶏図』は、アクロバティックな逆立ちを決めた雄鶏を描く。華やかで、ケレンたっぷりで、一度見たら忘れられない作品である。しかし、私は、芙蓉の花卉の上に載っている、赤と青の小鳥が気になる。花は小鳥の重みを感じている気配もない。その「無重力感」がなんとも言えず、若冲っぽいと思う。それから、楽しい『群魚図』2点。蛸の上下を泳いでいる魚のピンク色がとてもきれい。ギャラリーからは、間をおかず「かわいい~」の声が漏れる。やっぱり若冲って「萌え」系だなあ。

 最後が『紅葉小禽図』。この作品は、本物を見て、ハッとするほど印象が変わった。写真図版では、紅葉の赤がどぎつくて重たい作品だと思っていた。実際は、赤色が意外と薄くて、下地が透けている。さらに、写真では分かりにくいが、左上から斜めに射し込む光が描かれていて、ひろびろした空間、気持ちよく透んだ秋の空気を感じさせる。よく見ると、1枚だけ、まさに枝を離れて舞い落ちる紅葉によって、画面の中で「時間」が動き出している。紅葉の下に描かれた流水の音まで聴こえてくるようだ。

 『動植綵絵』は、もと、釈迦三尊像を荘厳するために描かれたというが、斜めに射し込む光の先には、如来の姿があるのかも知れない。余韻嫋々として、『動植綵絵』30幅の末尾を飾るに、ふさわしい作品だと思う。「歌仙」の挙句みたいでもある。
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国宝・納涼図屏風ほか/東京国立博物館

2006-08-16 23:32:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京国立博物館 久隅守景筆『納涼図屏風』

http://www.tnm.jp/

 本館2階の第7室「屏風と襖絵」に、久隅守景(くすみもりかげ)の『納涼図屏風』が出ているというので見に行った。よく知っている作品だが、実物を見るのは初めてである。立っているだけのような粗末な家、屋根から張り出した夕顔の棚、蓆を敷いて夕涼みする男女と幼い男の子。はじめ、おや、想像していたよりも寂しい絵だなあ、と思った。写真図版では、人物の描かれた部分をアップにしたがる傾向があるが、実際は、広い画面の4分の1ほどしかない。あとの4分の3は不思議な空白である。

 私はこの家族をアップで見て、江戸か京都の市中に住む町人一家をイメージしていた。そうだとすれば、彼らの隣には、同じような家族が軒を並べて住んでいるはずである。夫婦の会話や子どもの泣き声も聞こえてくるだろうし、さまざまな生活の音や匂いが素通しで行き交っているはずだ。ところが、この3人は、まるで世の終わりに取り残されたように、静謐な空白の中に浮かんでいる。だいたい、夫婦+子ども1人の「核家族」なんて、この絵の描かれた当時は、きわめて「異端」だったんじゃないかしら。

 じっと何かを注視するような彼らの耳には、何が聴こえているのだろう。画面の左上には、この絵の本当の主役ではないかと思われるくらい、大きな月。庶民の日常生活を描いたものと思っていたけど、そうも言い切れない、気になる作品である。

 一緒に見られるのは、酒井抱一筆『夏秋草図屏風』。もと、光琳の『風神雷神図屏風』の裏面にあったものである。私は、「夏草」側の上方に描かれた流水(雨雲?)が美しいと思う。でも、繊細すぎて不安を誘う美しさだなあ。
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始皇帝と彩色兵馬俑展/江戸東京博物館

2006-08-15 00:20:27 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館 特別展『驚異の地下帝国 始皇帝と彩色兵馬俑展-司馬遷「史記」の世界』

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 以前にも書いたが、私が初めて西安の始皇帝陵に行って、兵馬俑なるものを見たのは1981年。今では考えられないだろうが、ほとんど予備知識もなく、あの現場を見てしまったのである。あれから20余年、兵馬俑を知らない日本人はいなくなり、同時に、ただの「兵馬俑展」では驚かなくなってしまった。

 というわけで、今回の目玉は、1999年に発掘された「彩色兵馬俑」である。1体だけではあるが、一見の価値がある。非常に状態がいいので(復元の結果じゃないよね~)髪の編み上げ方や、靴底の滑り止め模様などにも注目してほしい。この彩色俑の発見によって、始皇帝陵が、極彩色の地下宮殿であった可能性が出てきた。

 本展では、彩色兵馬俑の立ち並ぶ兵馬俑1号坑を、CGで体験することができる。あくまで「可能性」の映像ではあるけれど、よく出来ていて、興味深い。この1号坑で発掘された将軍俑は、袖をまくり上げ、逞しい腕をのぞかせている。これもちょっと気になる。中国人って、身分の高い人士は肌を見せないはずなんだが、と思って首をひねった。

 始皇帝陵の出土品では、銅製の鶴や水鳥も数体、展示されていた。2004年、東博の『中国国宝展』の際も、「見ものは鶴!」と、私の周囲では衆目の一致した名品である。

 それから、ほかの陵墓で発掘された小型の彩色俑が数種。これは、本場・中国でも、たくさん見ているので驚かない。驚いたのは、40~50センチほどの男女(および宦官)の「裸体俑」が大量に出土していることである。徹底して裸体を忌避する中国文化で、なぜ? もちろん、土中では布製の着物を着せてあったそうだ。発掘現場は西安郊外の漢陽陵である。さらに、写真パネルを見ると、大量の動物俑も発見されているようで興味深い。(何百匹もの、整然と隊列を組んだ犬は食料なのか?)

 順序が逆になったが、本展の冒頭には、『史記』の平安時代の写本断簡と、慶長年間の古活字本(箪笥つき、三井家伝来)が展示されている。どこのものかと思ったら、慶応大学斯道文庫の蔵品だった。さすが!
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真っ当なサヨク批判/ラディカリズムの果てに(仲正昌樹)

2006-08-14 01:10:17 | 読んだもの(書籍)
○仲正昌樹『ラディカリズムの果てに』 イプシロン出版企画 2006.6

 現役大学院生の知人によれば、最近、人文社会学系の学会では「サヨク」の跋扈がひどいのだそうだ。どんな議論も「反権力」「反体制」に結びつけなければ、気がすまないらしい。へえーそうなの。私は、ネットやマスコミを見ている限り、うっとおしいのは右翼のほうかと思っていたのに。学者の世界はまた違うんだな。

 著者も、サヨクの跳梁に苦痛を味わっているひとりだそうだ。本書は、「世の中の人たちは悪い権力者に騙されている」という独り善がりの使命感を抱き、半分空っぽの頭で吠えているサヨクに対して、「吠えたかったら、てめえの犬小屋に籠って吠えてろ!」「マルクスの亡霊と一緒に地獄の穴蔵に戻ってくれ!」と思っている著者が、恨みの一部(4割くらい)を吐き出して、語り下ろしたものである。

 と、こんなふうに紹介してしまうと、誤解を招くかしら。上記は、著者一流のリップサービスに満ちた「本書を読む前の注意書き」(まえがき)の要約であるが、以下、本文で著者がインタビューに応えて語っている事柄は、ちょっと爺くさいくらい、常識的で、真っ当である。

 たとえば、「つまんない本」を読むことは大切である、とか。それによって忍耐力が身につき、基礎教養が養われる。専門書を読めないバカに限って、新書やエッセイだけを読んで、「こいつ、こんな単純なことを言っている」と不毛な悪口を言いたがる。むかしは右にも左にも、江藤淳や廣松渉のような大物がいて、基礎教養のない者が論壇に近づく余地はなかった。ところが、パフォーマンスで目立つ人が論壇で偉くなり始めると、教養の権威が上から崩れていく。同時にどんな独り善がりの意見でも、ネットを使って公表する機会が持てるようになると、妙な「参加幻想」を持つ思想オタクが増えてくる。大学生になった時点で「ちゃんとした手続きを踏んで定式化された言論にこそ価値がある」ということを学ぶべきである、云々。

 苦笑しながら読んだのは、左翼は「ちゃんとしろ」と言えない、という指摘。左翼思想は、「ブルジョワ的人間性を破壊することは良い」という前提に立っているものだから、ニート的、下流アウトロー的な生き方をしている若者に対して、市民道徳を持ち出して「ちゃんとした生活をしろ(=稼げるようになれ)」という激励をすることが、理論的にできない。あー、分かった。うちの職場の労働組合の、理解し難さも、これだわ。どう見ても当人に問題があるケースでも、「ちゃんと労働しろ」とは絶対に言わず、「組織が悪い」「政策が悪い」に論点を移しかえてしまうのが、とても不思議だったのだけど。

 さて、読者の多くは、著者と北田暁大氏との「トークセッション中止騒ぎ」の顛末に興味を持って、本書を手に取るのではないかと思う。しかし、詳細は略すが、この件についても、著者の説明は、しごく穏当である。私は北田さんのファンでもあるので、著者が「北田君を全否定しているわけではない」と語っていて、ちょっと安堵した。いつかまた、両人の対話が実現する日を待っていたい。
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東アジアの夜明け前/閔妃は誰に殺されたのか(崔文衡)

2006-08-13 09:02:35 | 読んだもの(書籍)
○崔文衡(チェ・ムンヒョン)『閔妃は誰に殺されたのか:見えざる日露戦争の序曲』 彩流社 2004.2

 いろいろあって、このところ、韓国の近代史に関心が傾いている。たまたま書店で目についた本書から読んでみることにした。閔妃(明成皇后)は、李氏朝鮮の第26代高宗の妃、朝鮮最後の皇帝純宗の母である。ロシア、清国、日本など、各国の野望が渦巻く政局混乱の中、景福宮で暗殺された。暗殺の真の首謀者は「いまだに明確ではない」(日本語版Wikipedia)とされている。

 いちおう「日本政府による計画的な計画でないことは判明している」そうだが、定番・角田房子さんの『閔妃暗殺』は、韓国駐在公使・三浦梧楼を暗殺の首謀者と考えているらしい。ちなみに、2002年、韓国KBS製作の連続TVドラマ『明成皇后』は、日本では全く話題になっていないが、中国では圧倒的な人気を博して「韓流」ブームを定着させた。私は韓国語が読めないので、中国語サイトでこのドラマの梗概を調べてみると、やっぱり三浦梧楼が日本守備隊を率いて閔妃を殺害したことになっている。中国語版Wikipediaの「明成皇后」にも同様の記述がある。

 本書の著者は角田説に批判的である。一介の駐韓公使に過ぎない(朝鮮に対する知識もなく、外交官としての経験もない)三浦を暗殺計画の首謀者と名指すことは、日本政府の「国家的犯罪」を隠蔽する結果にしかならない、という。事件当時、外相・陸奥宗光は病気療養中だった。朝鮮問題に関する専決権は、三浦の前任公使であり、「日本第一の朝鮮通」であった井上馨が握っていた。したがって、「刺客」三浦に閔妃暗殺を指示した首謀者は井上である、というのが著者の結論である。これはこれで、なかなかスジの通った推定に思える。

 しかし、つまるところは状況証拠に過ぎない。大局的な歴史認識の問題と違って、こういう「個別問題」は、よほど決定的な証拠が新たに発見されない限り、あまり拘泥しても、不毛な議論にしかならないのではないかと思う。

 むしろ、私は、本書の前半が非常に面白かった。閔妃暗殺事件の前後、清国、日本、ロシア、そして朝鮮王府が繰り広げたパワーポリティクスは、実に緻密でスリリングである。朝鮮は、決して列強に蹂躙されるだけの弱小国だったわけではなく、日本の進出に乗じて清国の支配を脱し、ロシアを引き入れることで、日本を牽制しようとした。清国は、日本の脅威を言い立てることで、自国とロシアの衝突を避け、日本は、三国干渉で窮地に立たされるが、ロシア、ドイツ、フランスの対立を逆手にとって、むしろ朝鮮での地位を固めた。

 この間、目ざましい活躍をするのが、日本の伊藤博文と清国の李鴻章である。どちらも、韓国の視点から見ると、迷惑至極の大悪人だろうと思うんだけど、本書の前半を読んでいると、ものすごくカッコイイ。それぞれ、国内には左右の敵対勢力を抱えながら、外交の修羅場でも舵を切っていたんだよなあ。それに比べると、残念ながら、韓国の近代初期には、この両名ほど卓越した政治家はいなかったのかなあ、と思う。

 このブログにも何度か書いたが、私は2003年に中国CCTVが製作した『走向共和』というTVドラマがとても好きだった。ドラマ前半の主役は李鴻章で、伊藤博文と対面する場面が印象的だった。敗戦国の全権大使として、屈辱的な講和条約の締結に臨んだ李を、伊藤は敬意を以って応接する。あのときは、意外な展開にびっくりして見ていたのだけど、あり得ないことではなかったかも。いや、両人は、国は違い、利害は決定的に対立していても、深いところで相手を評価し合っていたんじゃないかと思う。いまの日中の政治家に、この器量はあるだろうか。
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日本のビール産業史/神奈川県立歴史博物館

2006-08-12 19:32:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立歴史博物館 特別展『日本のビール-横浜発国民飲料へ-』

http://ch.kanagawa-museum.jp/

 歴史博物館といえば、やっぱり仏像とか古文書とか、近世以前の「歴史」を扱うところというイメージが強い。それに対して、今回の企画は、なかなか思い切った試みである。

 近代日本におけるビールの醸造と販売は、横浜山手の外国人居留地に設立された「ジャパン・ブルワリー」が最初である。以後、ビールは着実に生産量と消費量を増やして、国民飲料と呼ばれるまでに成長を遂げた。本展は、写真、文書、さまざまな実物資料(ビール瓶、ラベル、木箱、ポスター、販促グッズ)を通して、戦前期における日本ビール産業の歩みを振り返る企画である。

 見どころのひとつは古写真であろう。話を聞いただけでは信じられないようなものが、意外と写真で残っているのは面白い。たとえば、明治後期、香川県内のアサヒビール販売店。幟はためく店頭には、巨大なビール瓶のモックアップが設けられ、縞の上下(赤と白なのかなあ)の「音楽隊」が宣伝活動を展開している。『明治のたばこ王、岩谷松平』展のときも思ったのだが、明治の広告宣伝って、けっこう派手なのである。「謹厳な明治」のイメージを裏切られること甚だしい。

 明治10年代には、日本国内に100を超えるビール会社が存在したという。展示品の中に、国内外500枚のラベルを貼り込んだ「巻子本」があって、興味深かった(サッポロビール株式会社所蔵)。「倭ビール」「愛国ビール」のほか、「鳩ビール」「獅子ビール」なんてのもあった。しかし、明治34年(1901)、ビール税の導入によって、中小ビール会社は消えていった。このへん、煙草産業史と全く相似形である。

 びっくりしたのは、1990年代、アメリカ自然史博物館の中央アジア探検隊が、ゴビ砂漠で「採集」したビール瓶の破片。瓶底の星型マークを調べてみたら、大正年間に存在した、日本ビール社の社章と分かった。すごいなー。正倉院にペルシャのガラス瓶(へい)が伝わっているのと同じくらい、シルクロードのロマンを感じてしまった。

 日本各地に現存する戦前のビール工場遺構の写真紹介も面白かった。愛知県のカブトビール工場(戦時中は、中島飛行機の資材倉庫となった)には、ぜひ行ってみたい。また、明治~昭和初期のポスターも興味深かった。むかしのポスターって、特にキャッチコピーがなくて、純粋に絵画が主役だったんだなあ。多田北烏という画家の名前を覚えたのが収穫。
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