○姜尚中『愛国の作法』(朝日選書) 朝日新聞社 2006.10
「本書のようなタイトルで新書を書くことになろうとは、10年前には想像もしなかった」と、著者はあとがきで述べている。確かにその頃、もっと愛国心を、という意見は、チラホラ世に出始めてはいたが、しょせん時節外れの世迷い言と、私は一笑に付していた。
国民の税金で食べさせてもらっている官僚や政治家が、国家を大事にしよう、と言いたがるのは分かる。国家というシステムがなくなったら、彼らは飯が食えなくなるからだ。ところが、いつの間にか、国家に食わせてもらっているわけでもない大量の人々(特に若者)が「日本人なら日本を愛するのは当然」的な物言いに、本気で賛同するようになってしまった。いったい、この状況は何なのか? 私は――むかしはちょっとナショナリストを気取ったこともあるだけに、そういう自分の薄っぺらさが分かるだけに――気持ち悪くて仕方ない。
その正体は、総中流社会の崩壊とともに見捨てられた「負け組」の若者が、安易な接着剤とナルシスティックな全能感を求める姿なのではないか、と著者は説く。彼らの「愛国」は主情的・審美的で、屈託がない。
しかし、それとは異なる「愛国」もある。E.フロムは、人が人を愛することについて、「より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる」と語ったが、国を愛する作法にも同様のことが言える。知識と理性に基づく「愛国」は、しばしば煩悶と葛藤を呼び覚まし、時には反逆(抵抗)による忠誠という、逆説を呼び込むことさえある。本書は、こうした思索と理性に基づく「愛国」の実践者として、南原繁、矢内原忠雄、清水幾太郎、竹越与三郎、石橋湛山など、さまざまな先行者の発言を紹介する。
最後に著者は、韓国を祖国として選んだ自らの「愛国の作法」についても語っている。それは、「ナショナルな目標を達成するためには、ナショナルな枠組みを超えなければならない」という自覚に行きつく。「多国間主義的な政治だけが、一国の行為の可能性を広げて」いけるから(これはアレントの引用?)である。
本書の読みどころのひとつは、現在では、紹介されることの少ない、南原繁、矢内原忠雄、石橋湛山らの文章が、多数、引用されていることだろう。いずれも、理性的・論理的であると同時に、「理想の国家」を追求する真摯な情が、炎のように燃えさかっていて、ズシリと重たい読み応えがある。彼らの文章と、悪いけど『国家の品格』や『美しい国へ』を並べてみると、審美的にもどっちが上かは明らかである。
ところで、姜尚中氏は、Wikipediaの記事によれば、プロテスタントの洗礼を受けているそうだ(クリスチャンとしての顔は、あまり見せたことがないけれど)。本書に頻出する南原繁、矢内原忠雄のバックボーンもキリスト教である。私は、近代日本が、狂信的な国家主義に偏向しかかったとき、それを「健全なインターナショナリズム」に引き戻すという点で、キリスト教が果たした役割は、意外と大きかったのではないか、と考えている。であればこそ、「愛国」論議のかまびすしい2006年のいま、どうして一般のキリスト者は、もっと大きな声を挙げないのだろう?と、私は(キリスト者ではないが)日々やきもきしているのだが。。。
「本書のようなタイトルで新書を書くことになろうとは、10年前には想像もしなかった」と、著者はあとがきで述べている。確かにその頃、もっと愛国心を、という意見は、チラホラ世に出始めてはいたが、しょせん時節外れの世迷い言と、私は一笑に付していた。
国民の税金で食べさせてもらっている官僚や政治家が、国家を大事にしよう、と言いたがるのは分かる。国家というシステムがなくなったら、彼らは飯が食えなくなるからだ。ところが、いつの間にか、国家に食わせてもらっているわけでもない大量の人々(特に若者)が「日本人なら日本を愛するのは当然」的な物言いに、本気で賛同するようになってしまった。いったい、この状況は何なのか? 私は――むかしはちょっとナショナリストを気取ったこともあるだけに、そういう自分の薄っぺらさが分かるだけに――気持ち悪くて仕方ない。
その正体は、総中流社会の崩壊とともに見捨てられた「負け組」の若者が、安易な接着剤とナルシスティックな全能感を求める姿なのではないか、と著者は説く。彼らの「愛国」は主情的・審美的で、屈託がない。
しかし、それとは異なる「愛国」もある。E.フロムは、人が人を愛することについて、「より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる」と語ったが、国を愛する作法にも同様のことが言える。知識と理性に基づく「愛国」は、しばしば煩悶と葛藤を呼び覚まし、時には反逆(抵抗)による忠誠という、逆説を呼び込むことさえある。本書は、こうした思索と理性に基づく「愛国」の実践者として、南原繁、矢内原忠雄、清水幾太郎、竹越与三郎、石橋湛山など、さまざまな先行者の発言を紹介する。
最後に著者は、韓国を祖国として選んだ自らの「愛国の作法」についても語っている。それは、「ナショナルな目標を達成するためには、ナショナルな枠組みを超えなければならない」という自覚に行きつく。「多国間主義的な政治だけが、一国の行為の可能性を広げて」いけるから(これはアレントの引用?)である。
本書の読みどころのひとつは、現在では、紹介されることの少ない、南原繁、矢内原忠雄、石橋湛山らの文章が、多数、引用されていることだろう。いずれも、理性的・論理的であると同時に、「理想の国家」を追求する真摯な情が、炎のように燃えさかっていて、ズシリと重たい読み応えがある。彼らの文章と、悪いけど『国家の品格』や『美しい国へ』を並べてみると、審美的にもどっちが上かは明らかである。
ところで、姜尚中氏は、Wikipediaの記事によれば、プロテスタントの洗礼を受けているそうだ(クリスチャンとしての顔は、あまり見せたことがないけれど)。本書に頻出する南原繁、矢内原忠雄のバックボーンもキリスト教である。私は、近代日本が、狂信的な国家主義に偏向しかかったとき、それを「健全なインターナショナリズム」に引き戻すという点で、キリスト教が果たした役割は、意外と大きかったのではないか、と考えている。であればこそ、「愛国」論議のかまびすしい2006年のいま、どうして一般のキリスト者は、もっと大きな声を挙げないのだろう?と、私は(キリスト者ではないが)日々やきもきしているのだが。。。