見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

京極堂で一服/邪魅の雫(京極夏彦)

2006-10-07 17:12:57 | 読んだもの(書籍)
○京極夏彦『邪魅の雫』(講談社ノベルス) 講談社 2006.9

 このところ、学術書が続いたので、少し頭がほぐれるようなものが読みたいと思った。そこで、ちょうど書店に積んであった本書を手に取った。

 読後感は、まあまあだった。軽く読むには、人物配置が、ちょっとややこしい。また、たくさん人が死ぬわりには、あまり悪辣な人物が出てこないし、破局的な結末もないので、カタルシス不足の感がある。

 京極ファンは、作品の随所に散りばめられたウンチクを楽しみに読むと聞くが、その点でも、本書は、ちょっと物足りない。柳田民俗学の「世間話」を論ずるあたりが薀蓄の山場と思われるが、無理に本筋と関係づけたように感じられる。

 私は、京極夏彦の本は、『鉄鼠の檻』と本書の2作しか読んでいないので、あまりエラそうなことは言えないが、本筋とウンチクの絡み具合は、前著のほうが上であろう。それでも、京極堂も榎木津礼二郎も、登場場面は少ないが、カッコいい。ある種の爽快感を読者に感じさせる点で、エンターティメントの本領を発揮していると思う。
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清朝陶磁の精華/静嘉堂文庫美術館

2006-10-04 23:38:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
○静嘉堂文庫美術館 『インペリアル・ポースレン・オブ・清朝(チン)-華麗なる宮廷磁器』

http://www.seikado.or.jp/

 『インペリアル・ポースレン・オブ・清朝(チン)=Imperial Porcelain of Qing』は、訳してしまえば「清の宮廷磁器」。何の含みもない題名だが、わざわざ英語を使ったのは、「支那趣味」とか「東洋趣味」の枠を超えて、見る者全ての心を捉える清朝陶磁の魅力を表したかったのだろうと思う。

 実際、清朝陶磁の美しさは、ギリシア彫刻などと同じで、ある種の「普遍」に達していると思う。私は、つぶれたような、ひしゃげたような、「味もの」の器も好きだ。しかし、先日の『骨董誕生』(松涛美術館)でも思ったけれど、やっぱり「正統あっての味もの」である。東洋陶磁の「正統」中の「正統」、清朝官窯の美が、どれだけ圧倒的に素晴らしいかを、ぜひこの展覧会で実感してほしいと思う。

 会場に入ると、最初のケースに「青花」「粉彩」「豆彩」などの典型例が、詳しい説明付きで並んでいる。そのあとは、時代順に「康煕」「雍正」「乾隆」「嘉慶・道光」の4つのセクションが展開するが、個々の作品に説明プレートは付いていない。作品自体が雄弁すぎて、何の付け足しも要らないからだと思う。

 好きな作品を挙げていくと、康煕時代では「五彩花籠文盤」。文化の興盛期らしく、少し生硬で、素朴と洗練、様式化と写実のどこかアンバランスな加減が好ましい。この時代の赤色はオレンジ(朱)に近く、まだ薔薇色は現れない。くっきりした濃緑が印象的な五彩は「ファミーユ・ヴェルト(緑手)」と呼ばれるそうだ。

 次の雍正時代には、柔らかな緑色の美しさの際立つ「豆彩」が現れ、暖かみのある薔薇色を可能にした「粉彩」(ファミーユ・ローズ)が完成される。瓢箪と蝙蝠を配した「豆彩瓢蝠文盤」は、小ぶりで繊細な植物文が、日本陶磁の趣味によく似ていると思う(ちょっと鍋島に通じる)。

 乾隆時代の名品は、「粋」とか「精華」とかいう言葉がよく似合う。文様の輪郭や筆法もそうだが、磁器の素肌の滑らかさ・白さ・曇りなさときたら、1点の非の打ちどころもない。景徳鎮で焼いた極上の白磁を北京まで運んで染付をしたそうだ。いいなあ。少し青みがかった冷たい白に、とても惹かれる。大皿もいいが、小品もいい。

 私は、この会場から1点だけ持って帰れるなら、「粉彩瑞果実文碗」を選ぶ。広い余白に(白磁の素地の美しさ!)桃・石榴・茘枝(はじめ、大きなイチゴかと思った)を配した、安定のいい小どんぶりである。可愛らしい図柄が女性好みだ。使うなら甘味用だろう。私はこれでクリームあんみつが食べてみたい!

 ロビーに展示された「五彩封神演義図缸」は、変な人物や変な動物が描いてあって面白いので、お見逃しなく。最後に、図録『静嘉堂蔵清朝陶磁:景徳鎮官窯の美』を買ってしまった。この展覧会に合わせて制作・発行されたそうだが、今回、出品されていない作品も収録されており、静嘉堂清朝陶磁コレクションの全貌を知ることができる。ついでに来年のカレンダーも買った。今年は東博カレンダーで過ごしたが、来年は静嘉堂の名品で過ごそう。
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多文化帝国の終わり/清帝国とチベット問題(平野聡)

2006-10-03 08:48:03 | 読んだもの(書籍)
○平野聡『清帝国とチベット問題:多民族統合の成立と瓦解』 名古屋大学出版会 2004.7

 「中国政府とチベット」が、シリアスでデリケートな問題であることくらいは知っている。ただし、正直なところ、きちんと事実を見極めようと思ったことはない。面倒がって、いつも棚上げにしてきた。中国製の武侠ドラマを見ていると、チベット僧は悪役や笑われ役が多いので、やっぱり、中国人とチベット人は仲が悪いのかしら?というのが、この問題に関する、私のせいぜいの認識だった。

 しかし、この夏の中国旅行で、乾隆帝の地下宮殿を見たことで、この中途半端な認識は崩壊してしまった。乾隆帝は、清の最盛期に君臨した、中華帝国最後の大皇帝である。その乾隆帝の墓室の壁面をびっしりと埋めたチベット文字は、あまりにも意外で衝撃的だったのだ(私には)。喩えてみれば、明治天皇の墓室がハングル文字だらけだったとか。そんな感じである。

 清とチベットは、比較的良好な関係を保ってきた。しかし、清は女真族の王朝であるから、チベットは、いまの中国(漢民族国家)に服属するいわれはない、という意見がある。だが、私の見るところ、多くの中国人にとって清朝は、日本人にとっての江戸時代みたいなものだ。近代的な「国家」の概念を無意識のレベルで下支えしているような時代である。とりわけ、康熙・雍正・乾隆の「三世之春」は、共産党のドグマなんぞよりずっと深いところで、中国人の国民的統合の象徴として機能していると思う。その乾隆帝の墓室がチベット文字だらけというのは、中華文明とチベット仏教が、実は、相当深い結びつきにあることを示しているのではあるまいか。そんな予感がした。

 本書は、まず、雍正帝・乾隆帝の2代にわたって、清帝国の対チベット政策、および、その根底となった皇帝の統治思想を検証する。特に興味深いのは、著書『大義覚迷録』が伝える雍正帝の思想である。雍正帝は、儒学知識人の惰弱を嫌い、儒学イデオロギーによって順位づけられた「華夷秩序」に反発した。そして、多様な文化的価値を相対化し、平等に再配置する「中外一体」の帝国を目指した。しかし、この体制は、帝国の中心に位置する皇帝が「諸思想の基本精神を理解し、社会的公正の実現に責任を持つことができる人物」であって、初めて成り立つものである。

 雍正・乾隆という偉大な個性を失い、西洋との本格的な接触が始まり、清帝国が「近代」に適応していく過程において、「中外一体」という曖昧な領域主権概念は、見直しを迫られる(→岡本隆司『属国と自主のあいだ』が論ずる朝鮮半島のケースと同じ)。チベットは「藩部自治」を失い、「清帝国の一部」に転落する。

 東アジアの朝貢国が近代中国を離脱したにもかかわらず、モンゴル・新疆・チベットが残されたのは、列強諸国がその地域を「清帝国の内部」と認めたことが大きい。そして、いったん近代中国の領域が確定してしまうと、国力を高め、グローバルな主導権争いに勝ち抜くため、国境線の内側は「中」と「外」の和ではなく、単一の「中国」で満たされなければいけない、と考えられるようになった。これに対する反発と対立が、今日に至る、中国政府と民族問題の根幹になっている。

 最後まで読んで、しみじみ感じたのは、多文化・多民族国家の近代化の難しさである。とりあえず、20世紀のトレンドは「国民国家」であった。「単一民族(または、それに代わる緊密な単一文化)を以って形成されるのが”正しい”国家である」という強迫観念が、あるところでは同化の圧力を、あるところでは排除の圧力を生んできたのではないかと思う。

 21世紀中には、多文化国家の利点が生きる時代が、再びめぐってくるのではないかと思う。ただし、それは、偉大な皇帝の個性に期待する、「一君万民」の帝国であってはならない。調整者のいない、フラットな関係の中で、多様な文化を平等に認め合うことが、果たしてできるのだろうか。もうちょっと考えてみたい。
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大和文華館のヒガンバナ

2006-10-02 09:04:26 | なごみ写真帖
大和文華館の門を入って建物に至る歩道を飾る、紅白のヒガンバナ。

毎年、この時期は、鎌倉・鶴岡八幡宮の隅にあるヒガンバナの群落が気になる。花盛りが短いので、週末ごとに偵察に行っても、なかなか見頃に当たらない。今年は、関西で絶好の風景を見ることができたので、いいとしようか。

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秘仏と書画の旅(3):文人たちの東アジア

2006-10-01 08:00:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
○大和文華館 『文人たちの東アジア-詩書画がつなぐ中国・朝鮮・日本-』

http://www.kintetsu.jp/kouhou/yamato/index.html

 東アジア文人の書法と絵画を、国際性と交流の視点から見直すという展覧会である。中国・朝鮮・日本の作品を中心に、少数だが、沖縄(琉球)の絵画やベトナム(安南)人の書も展示されている。

 初めは、これは日本人の作だ、という「和臭」を嗅ぎ分けようと思っていたが、途中で馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。呉俊卿の『葫蘆図』(中華民国時代)と富岡鉄斎の『歳朝図』なんて似てるなあ。画風だけでなく、字体まで似ている。

 印象に残った作品のひとつは、李継祜筆『葡萄図』(朝鮮中期)。大きく弧を成す蔓状の枝と、やわらかなレースのような葉が、薄墨で描かれ、ところどころに小さな房がのぞいている。つややかな実の熟れ具合は、何段階かの墨の濃淡で表現されている。

 すぐに伊藤若冲の『葡萄図』を思い出した。先日のプライス・コレクション展で見た『葡萄図』というより、承天閣美術館にある、鹿苑寺大書院襖絵の『葡萄図』である。いや、本質的には、そんなに似ていないのかもしれないが、私は、初めて若冲の襖絵を見たとき、へぇー葡萄なんて、ずいぶんモダンなもの(もしくは、日本の伝統離れしたもの)を描くなあ、と思ったのだ。しかし、本展の解説によれば、「墨葡萄(←テクニカルタームらしい)は、梅竹蘭菊と並んで、文人画の重要なジャンルとして、朝鮮初期よりしばしば描かれた」のだそうだ。初めて知った。

 『台湾征討図巻』は、乾隆帝の武功を讃えるためにつくられた銅板画である。誇張された軍船と海の表現が面白い。もとは由緒正しい清朝貴族の家に伝わったものが、義和団事件以降、売りに出されたのだろう。明治維新の後、没落した大名家の家宝が、次々と市場に出たのに似ている。1枚ものを継いで巻子のかたちに仕立てているが、一部錯簡があるそうだ。以上、日曜講座の塚本さんの話。

 『閻相師像』は、朗世寧(カスティリオーネ)筆と伝えられ、西洋画ふうの写実的な筆致で、巨大な画幅に、精悍な武人像が描かれている。乾隆帝は、周辺民族との戦闘における功臣を讃えて、中南海(紫禁城の西側)にある紫光閣という建物に百幅の肖像を懸けさせたそうだ。

 以下も塚本さんの受け売りだが、1900年、八国連合軍の北京侵攻の際、兵士たちは「抜け駆け」を禁止するため、「紫禁城内の文物は持ち出さない」という紳士協定を結んだそうだ。その結果、紫禁城内の文物は、比較的散逸を免れたが、それ以外の地域にあったものは、あらかた略奪されてしまった。中南海の紫光閣も例外ではなく、この功臣像は、世界各地の美術館に散らばっているという。

 それから、方士庶の『山水画冊』にも惹かれた。初めて見る名前だと思うが、雍正年間の人らしい。点描のような、たどたどしい、神経質な筆の運びで、現実とは隔絶した幻想的な山水を描いている。画冊には、内藤湖南の題字、羅振玉、長尾雨山(→”支那ハイカラ”と呼ばれた。私と同様、この名前を初めて聞くという人は、こちらを必読)の跋あり。
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