見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

スターの素顔/壊れても仏像(飯泉太子宗)

2009-12-03 23:54:12 | 読んだもの(書籍)
○飯泉太子宗『壊れても仏像:文化財修復のはなし』 白水社 2009.5

 仏像ブームの昨今、ありそうでなかった本。というか、私が気づいていなかっただけなのだろう。1974年生まれの著者は、東北芸術工科大学の文化財保存修復学科を卒業後、美術院国宝修理所などで経験を積み、現在は、茨城県桜川市に「NPO法人古仏修復工房」を設立し、非営利で仏像文化財、木工美術品の修復をおこなっている。

 「古いものが好き」とはいうけれど、過剰な思い入れはない。仏像の造り方は「プラモデルと同じ」と説明し、「コンセプト」「パーツ」「スペック」なんて言葉をしれっと使っている。自筆イラストもマンガふうで、かなりポップ。しかし、不謹慎で不愉快かといえば、そんなことはない。天衣の破片ひとつを見て「明らかにうまい」と感じ、その向こうに像の姿を描くことができるというのは、著者なりの仏像への愛着の証拠だと思う。

 いや、仏像自体というより、仏像の制作や修理にかかわる人たちへの愛着なのかな。重ね書きされた修理銘に「修理のバトンタッチ」を感じたり、昔の職人は見えないところまで手を抜かずにものを作る、というのは間違いで、完成して納めたあとのことは今も昔もあまり考えていない、というのは、現場の人間ならではの実感で、苦笑を誘われる。

 マニュアル破りの「素人造り」仏像とか、制作年代判定のいい加減さとか、赤外線写真の威力とか、とにかく面白い話満載。また、文化財・古美術品としての価値は高くないが、ともかくめずらしい仏像の写真(たとえば、頭部は江戸、体は平安の仏像)、解体修理や運搬途中の仏像の写真も多数収録されていて、仏像ファンには、スターの「素顔」を覗き見るような楽しみがある。

※著者が主宰する、NPO法人「古仏修理工房」
http://npo.butuzou.net/

※YOMIURI ONLINE:「壊れても仏像」飯泉太子宗(としたか)さん(2009/6/23)近影あり。
http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20090623bk01.htm
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「地上の楽園」の現実/北朝鮮帰国事業(菊池嘉晃)

2009-12-02 23:58:31 | 読んだもの(書籍)
○菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業:「壮大な拉致」か「追放」か』(中公新書) 中央公論新社 2009.11

 私の場合、そもそも「在日コリアン」という問題系を意識したのは、90年代以降ではないかと思う(遅っ!)。であるので、1959年から84年まで、四半世紀にわたって続いた「北朝鮮帰国事業」についても、その存在を知ったのは、ごく最近のことだ。本書は、「北朝鮮による壮大な拉致」、いや「日本政府による厄介払い」という具合に評価の錯綜するこの問題を、起源にさかのぼって丁寧に、客観的に論じた労作である。

 私が本書から学んだこと(再認識したこと)を挙げていこう。まず、在日コリアンが渡日した要因は(1)生活難(2)留学など(3)戦時動員(4)前記三者の家族として、の4パターンに大別される。(3)に関して「強制連行」があったことは事実だが、戦後の在日社会において(3)の比率は1割程度に過ぎないという。また、渡日者の9割以上が現在の韓国地域の出身だった(戦前の内務省統計)。ではなぜ、大量の「北朝鮮帰国者」が発生したか。

 終戦時200万人を数えた在日コリアンのうち、130万人が46年3月までに帰国した。しかし、解放後の朝鮮南部の厳しい経済状況に加えて、南北分断、戦争の危機、大洪水などが伝えられると、暫時、帰国を思いとどまる者が増えてきた。52年、朝鮮戦争のさなか、サンフランシスコ講和条約が発効すると、在日コリアンは日本国籍を離脱させられ、韓国でも北朝鮮でもない「朝鮮国籍」が付与された。このような閉塞的な状況で、朝鮮戦争の休戦後、北朝鮮帰国運動が始まる。

 うーん。自分が当時の在日コリアンだったら、と考えてみる。日本政府が意図的に在日の厄介払いを図ったという説を本書は否定している。しかし、当時の日本政府に差別解消、就職支援など、共生に向けた責任ある取り組みがなく、潜在的な厄介払い願望があったことは事実である(政治家の発言など)。その結果、日本にあっては、能力や本人の努力にかかわらず、進学や就職の希望を叶えることは不可能で、十分な医療・社会保障もなく、貧困を抜け出すことは困難だった。では韓国は? 現在の韓国を念頭に置いてはならない。本来の祖国、韓国は、李承晩の独裁政権下(1948~1960)、粛清・虐殺が相次ぎ、経済は停滞し、北朝鮮以下の世界の最貧国と見られていたし、そもそも日韓国交正常化は、65年まで待たなければならなかった(59年~北朝鮮帰国事業が日韓関係を冷え込ませた面もある)。

 このように、進むも地獄、とどまるも地獄みたいな状況で、とりあえず同じ民族、同じ朝鮮半島への帰国という選択肢が与えられたら、無鉄砲が身上の私は、たぶん多少の不安には目をつぶって、「未知の祖国」へ進んで飛び込んで行っただろうと思う。2009年の現時点から振り返れば、それは愚かな決断であり、豊かで民主的な社会が実現されている「日本」「韓国」にとどまった人々は、まだしも「賢明」だったとみなされるだろう。しかし、それは歴史の後知恵ではないのか…。

 北朝鮮の現実が、もう少し早く暴かれていれば、これほど悲劇は大きくならなかったという反省もある。しかし、「地上の楽園」なんて誇大宣伝丸出しコピーを、当時、どれだけの帰国者が真に受けていたのだろう。ほかにどこにも安住の地がない状況では、たとえ誇大宣伝と分かっても、前に進まざるを得なかったのではないかと思う。自己決定、自己責任なんて、現実にはそんなものだ。

 本書の第8章には、実際に北朝鮮に帰国した人々の証言が紹介されている。全体の記述から見て、分量はわずかだが、内容は衝撃的だった。出迎えの人々の貧しさ、生気のなさを見て「だまされた」と知る帰国者たち。一方、「日本で虐げられてきた貧しい在日同胞を受け入れよう」と聞かされて集まった北朝鮮の人々も驚いたらしい。帰国者は、食事も住居も、北朝鮮の平均的な水準よりは優遇された。しかし、日本の生活に慣れた帰国者には「優遇」と感じられないものだった。――この悲しい齟齬。

 悲劇の最大要因はもちろん北朝鮮当局にある。とは言いながら、現体制が崩壊した場合、(もと在日コリアンの)帰国者・日本人妻・その子孫など、一説では10万人が移民や難民として日本にやってくるかもしれない、という想定には、たじろがざるを得ない。どうするのがいいのかなあ。読み終えても答えは見つからない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再訪・大東急のアーカイブ/伝えゆく典籍の至宝・後期(五島美術館)

2009-12-01 21:28:00 | 行ったもの(美術館・見仏)
五島美術館 大東急記念文庫創立60周年記念特別展『伝えゆく典籍の至宝』(2009年10月24日~11月29日)

 この秋は、会期途中で大幅な展示替えをする展覧会が目立つ。同展も、数では全体の2割程度だが、かなり目をひく「見どころ」が入れ替わるので、欲張ってもう1回、行ってきた。

 文句なしに感激したのは『金光明最勝王経音義』(平安時代)。大ぶりな紙面に、広い余白を取って、ポツポツと置かれた意味不明の漢字。実はこれ、万葉仮名で書かれた最古の「いろは歌」の文献なのである。すごい! 解説によれば、本書の巻末には「十行を完備した最古の五十音図」も付いているのだそうだ。展示箇所をよく見ると、「いろは歌」の隣りには「次可知濁音借字」と題して、バ行、ダ行、ガ行、ザ行の「借字」(万葉仮名)を挙げ、さらに隣りに「次可知○○二継借字」として、方(ハウ)、房(バウ)、経(キャウ)などの長音(二重母音)を列挙する。「○○」に入るのは、カタカナの「レ」に似た形とその逆向きの仮名で、当時の長音記号だったと思われる。承暦3年(1079)の資料だそうだが、既に日本語の音韻に対して、こんなに整理された意識を持っていたのか、と驚く。

 『因明論疏』2帖には、各帖末に藤原頼長の識語を有する。現存唯一の自筆だそうだ。「悪左府」と呼ばれた頼長は、くせもの揃いの同時代でも、きわだって個性的なキャラクターで、私はけっこう好きなのである。にしても、「日本一の大学生」と評された学識のわりに、筆跡は小学生の習字みたいで、お世辞にも能筆と言えないのが微笑ましい。解説に「宋版を思わせる痩肥のない無機質な印象」というが、そりゃ褒めすぎだろ…。

 『北野天神絵巻(弘安本)断簡』3件など、絵画の名宝も数多く並ぶ中で、見に来てよかった~と思ったのは巻物を手に、衣と蓬髪を靡かせながら微笑む『寒山図』(風吹き寒山)。描かれた人物の飄然とした表情とは別に、右端にちらりと覗く岩壁など、画面は知的な構成を感じさせる。作者霊彩は伝未詳。原三渓旧蔵品。さすがの目利きだと思う。鎌倉時代の色鮮やかな『現在過去因果経』は、五島慶太遺愛の品で、臨終の間際は枕辺に置いていたのだそうだ。原三渓と『四季山水図』のエピソードといい、コレクターは羨ましいなあ。谷文晁のスケッチノート『画学斎過眼図藁』2冊にも目を見張った。新書版くらいの縦長の冊子。展示箇所は、1冊は桜咲く春の山村の風景(彩色)、1冊は睨みをきかすトラ?の姿が描かれていた。もっと見たい。

 このほか、前期と変わらない「出版文化の諸相」のコーナーは、じっくり見返してお勉強。五山版の柳宗元文集の刊記に載る中国人刻工の名前を興味深く眺める。当時、元末の戦乱を避けた渡来人の刻工が、嵯峨臨川寺付近に多数居住し、五山版の出版にかかわっていたという。近世初期の活字印刷に関して、家康の駿河版の活字が印刷博物館にあるのは知っていたが、天海版の活字が寛永寺に、伏見版の活字が円光寺(現在は洛北)に、意外と残っているんだな、と認識。南北朝時代の『論語集解』は「論語」に「リンギョ」と漢音のカナが振ってあった。なるほど、いつの間にか呉音の「ロンゴ」になってしまうのか…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする