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東京藝術大学大学美術館 『うらめしや~、冥途のみやげ展-全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に- 』(2015年7月22日~9月13日)
上野・谷中の
全生庵には、明治の噺家三遊亭圓朝(1839-1900)ゆかりの幽霊画が所蔵されており、毎年八月に一般公開される。ということは、むかしから知っていたが、いつも行き逃していた。本展は、その圓朝コレクションを中心に、芸大や他館が所蔵する錦絵や近代日本画等を加え、日本美術史における「うらみ」の表現をたどる。
展示室は地下2階の左右2室のみで、比較的こじんまりした印象である。展示作品は全154点だが、実は前後期でほとんどが入れ替わる。会場のつくりはかなり凝っていて、トンネルのような暗く狭い入口をくぐると、細い通路に三遊亭圓朝の関連資料が展示されている。突き当たりに影絵のような横顔が見えていて、近づくと、圓朝そのひとだと分かった。演芸会のビラが面白くて「欧洲小説 松の操 美人活埋」なる演題も発見。原典は何だろう…。
通路を抜けると、広々したスペースをぐるりと全生庵の幽霊画が取り囲む。生前の三遊亭圓朝が集めた作品のほか、のちに加わったものもあるそうだ。会場のアクセントなのか、天井に吊られた四角い蚊帳が効いている。描かれた幽霊はほとんどが女性であるが、髪は抜け落ち、肉は落ち、美醜も性別もどこかに置き忘れたような姿が圧倒的に多い。たぶん、近世から明治というのは、こうした悲惨な遺体や病人がたくさん目についた時代だったのではないかと思う(逆に中世以前は、もっと簡単に人が死んでいたのかもしれないな)。その中で、円山応挙筆と伝える最も有名な、足のない幽霊図は、例外的に黒髪も豊かで頬もふっくらして、儚げではあるけれど、まだ女性の美しさが匂い立っている。それにしても、どう見ても部屋の飾りにはならない悲惨な幽霊画が、なぜこんなに制作されたのだろう。春画が「火災除け」になったとは聞いたことがあるが、幽霊画も持っていると何か効能があったのだろうか。ときどき、幽霊の姿のない「風雨の柳」や「月に柳」の図もある。そうそう「雨月物語」ではないけれど、雨と月は幽霊につきものだったな、と思い出す。
第2室は、錦絵や浮世絵に描かれた幽霊から。国芳の作品が圧倒的に多くてうれしい。平家物語に取材した作品が多くて、国芳の平家びいきを感じるとともに、江戸の人々にとって「平家物語」は軍記や歴史物語である以上に幽霊(怨霊)の物語だったんだなあと考える。
そして、第2室の後半は、時代を超越した「うらみ」の名品揃い。曽我蕭白の『柳下鬼女図屏風』(藝大蔵)が出ていて嬉しかった。後期は、同じく蕭白『美人図』(奈良県立美術館蔵)が出るみたい。渓斎英泉の『幽霊図』は、女の幽霊が若い女の生首をぶらさげている。笑い声の漏れそうな幽霊の口元。リアルな血の色が生々しい。「でろり」の画家・祇園井特は、キャラの立った幽霊図を描いている。河鍋暁斎は、行灯の心細い明かりに浮かび上がる幽霊を描いた作品あり。静謐で冷え冷えした空気を感じさせる。月岡芳年『幽霊之図 うぶめ』は、墨を流したような薄暗がりに、血だらけの腰巻の女が後ろ向きで立っている。西洋絵画のような肉体のなまめかしさ。腕の中から赤子の小さな両足がこぼれている。これは怖い。
最後は松岡映丘の『伊香保の沼』。湖畔に腰を下ろして、両足を水に浸し、ぼんやり前を見つめる着物姿の女性。実は、武田信玄の城攻めに遭い、降伏を拒んで入水し、龍に変じた木部姫の伝承があるのだそうだ。だからなのか、この美しい女性像が持つ禍々しさは。展覧会のポスターを飾っている上村松園『焔』は、9/1から展示で見られなかった。後期(8/18~)は私の好きな吉川観方の『朝霧・夕霧』も出るのだな。できればもう一回見にきたい。
能面では、鬼になり切った「般若」より、なりかけの「生成」のほうが怖いものだな。噺家・二代目柳亭左龍が「道具入り怪談噺」に使用した四谷怪談の面も怖かったが、図録の解説によると「亡者の扮装をした弟子を客席に登場させた」って、それは反則だろう。
1階の「冥途ショップ」では、白装束のお姉さんが売り子をしている。あと、エレベーターの地下2階ボタンにテプラで「うらめしや~」と貼ってあったのも地味に可笑しかった。↓谷中の
福丸饅頭屋さんの展覧会オリジナル、一口饅頭。予想以上に小さくて薄くて、ぱくぱく食える。