見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

妖怪の幸(さきわ)う国/諸星大二郎『妖怪ハンター』異界への旅(太陽の地図帖)

2015-08-03 00:22:34 | 読んだもの(書籍)
○太陽の地図帖編集部編『諸星大二郎「妖怪ハンター」異界への旅』(別冊太陽 太陽の地図帖_031) 平凡社 2015.7

 なんと、「太陽の地図帖」に諸星大二郎の地図帖シリーズ(と勝手に名づけてみる)第二弾が加わった。第一弾の『「暗黒神話」と古代史の旅』がよほど好評だったのに違いない。

 今回のテーマ作品は「妖怪ハンター」。Wikiによれば、著者にとって初めての連載作品であり、『週刊少年ジャンプ』1974年37~41号(短い!)に最初のシリーズが連載された。その後、主人公の考古学者・稗田礼二郎を引き継いで、『週刊ヤングジャンプ』『ウルトラジャンプ』等に関連作品が掲載され、さらに稗田礼二郎の教え子たちが活躍するシリーズとして、現在も断続的に書き続けられているという。へえ、知らなかった。

 私が印象鮮烈に覚えているのは「みんな ぱらいそさいくだ!」のセリフで知られる「生命の木」(1976年8月、少年ジャンプ増刊)である。ただし、最初に読んだのは吾妻ひでお先生『不条理日記』のパロディで、それから原典に遡行したはずだ。80年代~90年代の作品は、弟が『ヤングジャンプ』を買っていたので、たぶんリアルタイムに読んでいた。

 あらためて面白いと思うのは『少年ジャンプ』『ヤングジャンプ』という雑誌である。80年代の『少年ジャンプ』といえば「Dr.スランプ」「キン肉マン」「聖闘士聖矢」などのメガヒット作品が目白押し。読者アンケートを最大限に活用し、徹底した「最大多数」ニーズ志向の誌面づくりが行われていた。1979年に創刊し、女性アイドルのグラビアとちょっとエッチな日常描写(成人雑誌ほどではない)を売りに青年層をねらった『ヤングジャンプ』も基本的には同じコンセプトであったはず。にもかかわらず、絶対その基本方針にそぐわないようなマニアックな作品が、時々誌面を飾っていたのだ。まあ、いい時代だったということか。売り上げ至上主義のように見えて、なぜかエアポケットのような趣味性が付随していた。

 80~90年代に読んだ「妖怪ハンター」の記憶はあまり明らかでない。私は、まさにこの頃、谷川健一とか小松和彦とかを読んで、知識を蓄えている最中だった。やっぱりこの作品は、神話や民俗学について、ある程度知ってから読んだほうが面白い。知らないと分からないという意味ではなくて、典型的な解釈を「外される」感じが、たまらない快感なのである。

 「外される」と書いたけれど、諸星マンガが描く世界は、学問的な認識以上に腑に落ちるところがある。このひとには何か太古の声を聴き取る能力があるのではないかと思う。本書のはじめに京極夏彦さんが一文を寄せていて、妖怪は江戸後期に成立した化け物キャラを原型としている、と書いている。水木しげるの妖怪マンガの面白さは、現代の中に前近代が同居している点にあるだろう。ところが「妖怪ハンター」は、考古学者・稗田礼二郎を狂言まわしにすることで「前近代を通り越して、古代まで妖怪を繋げてしまった」。そこでは、妖怪はまだ妖怪でなく、別の名前で呼ばれている。

 という難しい講釈を語るよりも、ことばを失うほど魅力的なのは、その「絵」である。特に妖怪の造形のしかた。著者の場合、江戸時代の妖怪図絵などは、あまり参考にしていないのではないかと思う。あるいは、参考にしていても、著者の空想(妄想)のほうが、それを突き抜けてしまうのか。「海竜祭の夜」の海竜とか「産女の来る夜」の産女とか、悪夢のように怖いのに官能的で魅力的。「天孫降臨」の一場面らしいが、闇夜の富士山を背景に虚空に浮かぶ船に乗った稗田礼二郎。作者の視点は、その船よりもさらに遥か上空にある。このコマにも目が釘付けになった。

 作品の舞台として取り上げられている「場所」は、長崎&東北のかくれキリシタン遺跡、九州の装飾古墳、富士山周辺の聖地、大和の三輪山、皿屋敷伝説(※「皿状の窪地」という地形と関連している→ブラタモリで見たい!)、鳥居、洞窟、環状列石など。特に「鳥居」「洞窟」などのキーワードでは、舞台を特定せず、全国の気になるスポットを紹介してくれている。行ってみたいが、交通の不便そうな場所が多い。

 著者のインタビューと作品のネタ帳らしきもの(旅の写真、メモなどが貼り込んである)の写真も興味深かった。また「妖怪ハンター」全作品の扉絵、あらすじ(といっても導入部の紹介のみ)&著者コメントが掲載されているのも嬉しい。諸星ファンがファンのために作っていることがよく分かる本である。
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石人原の章(完結)/西遊妖猿伝・西域篇(6)(諸星大二郎)

2015-08-01 23:29:54 | 読んだもの(書籍)
○諸星大二郎『西遊妖猿伝・西域篇』6 講談社 2015.4

 第5巻から1年ぶり。相変わらずの刊行ペースなので、これまでのあらすじを振り返り、思い出してからでないと、新たな展開についていけない。突厥の勢力圏をのがれ、西の草原に移住しようとするキルク族。家畜を従え、全ての家財道具を持って進む彼らの安全を確保するため、悟空、イリク、イリューシカの三人は、迫りくる突厥の精鋭部隊二百騎を足止めすることを企てる。

 この「絶対多数」対「少数」の対決というのは、大唐編でも時々あったように思うが、かなり好きなシチュエーションだ。敵は「絶対多数」であるけど、普通の兵士たちなので、リアルな戦闘を描いて読者を納得させなければならない。魔術や妖術をつかう強敵との対決よりも、少年マンガの基本にもどって、血わき肉躍る興奮がある。

 夜に入り、戦いが佳境に入ったところで現れたのは、イリューシカの弟のカマルトゥブ。悪霊ドゥルジ・ナスと一体化したその姿に、恐れをなした突厥たちは我先に逃げ出す。そして、カマルトゥブは斉天大聖の名を呼び、助けを請う。しかし、もはやカマルトゥブをドゥルジ・ナスから引き剥すことはできず、イリューシカは魔除けの矢で弟を射殺す。「この国へ来てから大聖がほとんど表面に現れなかったのは/大聖を呼ぶ者がいなかったからだ/この国のしきたりは唐と違いすぎて/恨みを飲んで死んだ者たちがいても/たぶん大聖の存在に気づいていない」という悟空の独白が興味深い。それじゃあ、悟空がそのことに気づいたことで、今後は斉天大聖の活躍(?)が見られるのかな。

 悟空の同時代に生きる西域の人びととは別に、同じ場所に、すでに滅びた古代の狩猟民が暮らしてことを悟空は感知している。こういう重層的な歴史のとらえ方は作者の得意とするところで、面白いと思った。そして、古代の狩猟民の念を集めて悟空(斉天大聖)に対抗しようとした鹿力大仙は、イリューシカの遠矢に結界を破られ、あっけなく滅ぶ。

 まずは一件落着して先を急ぐ悟空。しかしイリューシカは、弟の仇を討つために、羊力大仙と謎の少女アマルカが悟空に接近してくるのを待つ様子。果たして次の巻では、華々しい戦闘が待っているのだろうか。原作に基づくなら、まだ「虎力大仙」が現れていないのも気になるところ。

 なお、本巻には「大唐篇」の番外編である『逆旅奇談』を収める。ある雨の日、たまたま旅籠で一緒になった旅客たち。近くには恐ろしい化け物が出るという。その化け物は人に化けることができる。次々に起こる殺人事件。果たして犯人は?というミステリー仕立ての短編作品。実は旅籠の客の中には、金目当ての強盗犯や復讐相手を探す幽鬼も混じっていた。化け物も正体を暴かれ、成敗されて一件落着と思いきや、最後に残った謎の美女は、恐ろしい蛇蠱の使い手だった。その名は陳一升金。蛇蠱の名は小青。「大唐篇」で悟空と死闘を繰り広げた蛇蠱使いの少女の成長した姿だった。

 うわーうれしい!やっぱり作者の描く中国もの、好きだ。「大唐篇」で悟空とかかわった人々が登場するスピンオフ作品(後日談でも前日談でも)、こんなふうにときどき書いてもらいたい。
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普通の人びとの犯罪/ネット私刑(リンチ)(安田浩一)

2015-08-01 08:50:23 | 読んだもの(書籍)
○安田浩一『ネット私刑(リンチ)』(扶桑社新書) 扶桑社 2015.7

 はじめに本書は、まだ記憶に新しい二つの事件を取り上げる。2015年2月、多摩川の河川敷で中学一年生の男子が、遊び仲間の少年たちに殺された「川崎中一殺害事件」。2011年10月、大津市内に住む中学二年生の男子が自宅マンションの最上階から飛び降り自殺した「大津いじめ自殺事件」。どちらの事件も「殺害」「自殺」が発生したという事実以外は、ごく断片的な情報しか大手マスコミが伝えていない段階で、ネットではたちまち「犯人捜し」が始まった(らしい)。この手の反応は、何度か見てきたので、私はなるべく遠ざかっていたけれど。

 彼らの情熱はどこから来るのだろう? 正義感なのか。「祭り」に乗り遅れまいとする高揚感と、誰よりも先に「真相」に到達したいという功名心、自己顕示欲なのか。曖昧な情報、間違った情報が拡散され、誰も責任を取らない。川崎の事件では、ある男子高校生が殺害に加わっていたかのように実名をさらされた。「犯人の一味」とされた女子中学生、「犯人の彼女」とされた別の女子中学生もいる。大津の事件では、無関係な67歳の女性が「加害者の母親」と見なされて、住所や電話番号をさらされ、彼女が会長をつとめる団体の事務所には、高圧的な抗議電話が殺到した。こわい。これでは、身に疾しいところがなくても、いつ、暴走する「正義感」の犠牲になるか分からない。皮肉なことにネット住民が血道をあげて糾弾している「いじめ」の構造と全く同じではないか。

 川崎の事件では、容疑者二人の母親がフィリピン人で、主犯の少年の祖母は在日韓国人だった。このことが、今の社会、特にネット住民に濃厚な「ナショナルな空気」を刺激したことを著者は指摘し、かつて、知人の在日コリアンの女性がネット上で受けた執拗なヘイトスピーチの事例を次に取り上げる。女性は、主犯格の二人の高校生を特定し、高校に通報した。謝罪の席で、二組の父子が女性に示した対照的な態度は興味深い。そのうちの一人の高校生は、のちに「特別な理由なんてありませんでした。ただ面白かった」と著者に語っている。おそらく事実なのだろう。

 抵抗する力のない他人を、いじめるのは楽しい。侮蔑し、嘲笑するのは楽しい。私も「そういうこと」をした経験はある。しかし、行き過ぎた「いじめ」は必ずリスクを伴う。周囲の雰囲気が険悪になり、叱られたり、自分の信用を落としたりする。恨みを買って、復讐される危険性だってある。ということを、私は幼稚園から小学校までの間に、何回かの失敗を代償に学習したものだ。現代人の一部が(いい社会的地位にある大人も含めて)不思議なほど幼児的なのは、社会が「子どもの振る舞い」をいつまでも許容してしまうからだろうか。私の世代では、リアルな人付き合いの体験をベースに、匿名が許されるネットの世界でも、これ以上はやったらダメだろう、という推測が成り立ったが、今やそういう自制が効かなくなっているのかもしれない。

 最後に、ネット上で「殺人犯」にされた経験のあるお笑い芸人、スマイリー・キクチ氏へのインタビューがまとめられている。事件が「始まった」のは1999年で、いくら警察に訴えても「ネット被害」の意味を理解してくれなかった(そうだろうなあ)。ようやく理解ある警察官に出会い、デマを流した人々を特定して、特に悪質な19人に警察への出頭を要請し、うち1人は逮捕された。年齢も職業もバラバラは19人に共通していたことはひとつ、全員が「私は悪くない」と答えたことだ。ネタ元は別にあって、自分が言い出したわけではないのに、運悪く特定されてしまったと考えていた。つまり、「ネット私刑」においては、誰でも被害者になり得るのと同じくらい、普通の人びとが誰でも加害者になり得るということじゃないかと思う。

 本書の「まえがき」には、まだネットなどなかった時代、中学生だった著者が「いじめ」の加害者側に加担した経験が書かれている。少し感傷的かもしれないが、「ネット私刑」の問題を、いつ自分に起きてもおかしくないこととして考えることを読者に迫っているようにも感じられた。
コメント (3)
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