見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2018年11月@関西:正倉院展(奈良国立博物館)

2018-11-14 23:42:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 『第70回正倉院展』(2018年10月27日~11月12日)

 恒例の正倉院展。私は朝イチに並んで入るのが好きなのだが、今年は東京の友人が、この日の夜間開館を狙って来るというので、会場内で合流することにしていた。18時少し前に博物館に到着すると、まだ短い列ができていて、5分くらい並んだ。「レイトチケット」(土日は18時半から)の待ち列もできていた。館内はかなり混雑していて、わりと気楽に会話をしているお客さんが多いのでざわついている。しかし、展示品に張りつくお客さんが少ないので、少し待つと展示ケースの前が空くのはありがたい。

 入ってすぐのエリア、単立ケースに展示されていたのは『平螺鈿背八角鏡(へいらでんはいのはっかくきょう)』。ほぼ円形で八枚の花弁形に浅い切れ込みのある鏡で、白い螺鈿と赤い琥珀から成る花鳥文がびっしり埋める。よく見ると文様の隙間は青や緑のトルコ石の細片が散りばめられている。アールヌーボーを思わせる優雅な美しさ。しかし、この手の品は明治時代にかなり修復されているはず。あとで図録で確かめたら、やっぱりそうだった。

 今年の目玉(図録の表紙)である『玳瑁螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこ)』もあやしいと思ったら、やはり明治時代に大がかりな修復を受けていた。修復を完全否定するわけではないが、自分の見ているのが、伝世の至宝なのか、明治工芸の粋なのかは区別しておきたい。

 見た目の美しさは劣っても、後世の追加創作が感じられない宝物のほうが私は好きだ。麻布に墨で素朴な山水景観を描いた『山水画』(素朴すぎて使いみちが思い浮かばない)とか、下貼の反故紙から毛皮の帽子をかぶった胡人の絵が発見された『緋絁鳥兜(ひのあしぎぬのとりかぶと)』にわくわくする。角の擦り切れたフェルトの敷物も好き。羊耳形(丁字形)の緒止めのついた『新羅琴』、三彩の『磁鼓』など楽器も面白かった。

 銅製のうつわ『佐波理加盤(さはりのかばん)』には、包み紙あるいは緩衝材として使われた反故紙として新羅の役所で作成された文書の断片が附属している。2002年にも出陳されているそうだが、私は初めて知った。また『華厳経論帙』の内貼にも新羅の住民調査の文書が使われている。ただしこれは、昭和8年の修理で発見されたあと、もとに戻されたので、写真でしか見ることができない。内貼まで調べると、こんなものが出てきたりするのだな。

 終盤は地味な展示品が多いのだが、今年は最後の部屋が混雑していた。超美麗な『犀角如意(さいかくのにょい)』の前で大渋滞が起きていたのだ。順番を待つ人があふれ返って、壁際の『未造着軸(みぞうちゃくのじく)』(未使用の巻物の軸)のケースにも近づけない。これはいったん、諦めて立ち去ることにする。

 19時頃、友人と落ち合って、博物館を後にし、JR奈良駅高架下の居酒屋「ゆるり」で食事。奈良の地酒の利き酒セットもあって、安くて美味しかった。友人は大津へ、私は奈良駅前のビジネスホテル泊。

 そして翌日。朝から再び奈良博に出かけた。こんなことができるのは「各展覧会2回まで無料」の奈良博プレミアムカードを持っていればこそである。朝7時半頃に到着して、20人目くらいに並んだ。私の後ろが職員の通用口で、いったん列が切られていた。8時頃から人が増え始め、9時の開館にはピロティから人があふれていたのは例年どおりである。

 入館すると、計画どおり、私はまっすぐ西新館の最後の展示室に向かった。『犀角如意』をしっかり見るためである。そんなに早くお客が現れると思っていなかった担当職員は、まだのんびり談笑していた。複数の職員に警備されながら、私は10分くらい独り占めで『犀角如意』を眺めることができた。ううむ、これはきれいだ。頭部は箒のような末広がりで、尾も小さな箒形をしている。華奢な柄は、赤・青の撥鏤(ばちる)の繰り返しで六等分されており、鏡に映る裏面は、赤の裏は青、青の裏は赤という芸の細かさ。繊細な花鳥文に水晶、金、象牙などで華やかに装飾する。2005年に出品されているので、私は一度見ているはずだが記憶になかった。これも明治時代に一部修復されたものではある。

 それから巻物の軸11本と軸端6隻をじっくり見る。軸端はメノウ製、黒水晶製など。軸木に取り付けられた軸端には、色鮮やかなガラス製(緑、紺、黄色、茶)や木製で彩色の花鳥文を施したものが見られた。そのほか古文書など、最後の展示室をゆっくり見たあと、巡路を逆回りに進んだ。先頭の展示室に戻った頃はだいぶ混み合っていたが、満足できた。仏像館を駆け足でひとまわりし(室生寺の釈迦如来坐像が引き続きおいでなのを確認)参観終了。この日は京都へ向かった。
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2018年11月@関西:天理参考館、東大寺ミュージアム、興福寺

2018-11-13 23:58:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
天理大学附属天理参考館 第83回企画展『華麗なるササン王朝-正倉院宝物の源流-』(2018年9月26日~11月26日)

 月曜に京都で仕事があったので週末から関西入り。土日2日間で見仏&展覧会めぐりをして来た。初日は東京からまっすぐ天理へ。正倉院宝物にもゆかりのササン朝文化を特集する企画展を見てきた。ササン朝ペルシア(226-651)は、3世紀から7世紀半ばまで約400年間、現在のイランとイラクの大部分を支配していた帝国である。壁の年表を見ながら、中国でいうと魏晋南北朝から唐の初めに当たることを理解する。ゾロアスター教(拝火教)を国教としており、ササン朝の銀コインには、表面に権力者の顔、裏面に拝火壇と神官を描いたものが見られる(ちょうど、ローマ帝国の貨幣に関する本を読んでいたので、基本的に図像のルールが同じなのが興味深かった)。

 正倉院宝物『白瑠璃碗(はくるりのわん)』はササン朝のカットガラス碗である。天理参考館はよく似た出土品のガラス碗を所蔵している。大小さまざま5つくらいあって驚いた。なお『白瑠璃碗』と同一セットと思われるガラス碗が安閑天皇陵から出土し、今は東博にあるとか、上賀茂神社や沖ノ島でも断片が採取されているとか、井上靖に『玉碗記』という小説があるとか、新しい知識を仕入れた。『白瑠璃碗』のような円形切子厚手碗は、ササン朝の中心都市よりもカスピ海南西岸地方で多数出土しているというのも面白い。

 ササン朝には優美な工芸美術のイメージしかなかったが、ごつい鉄剣や鉄兜も展示されていて少し驚いた。ササン朝はイスラム軍に敗れて滅亡する。最後の皇帝の王子ペローズは唐に亡命し、再起を期したが果たせなかった。これは小説になるなあ。もうなっているのかしら。そして、王子だけではなく、ササン朝の滅亡によって多くの難民が唐に逃れたことから、長安ではペルシアブームが起きた。なるほど面白い。確かにソグド人などの商人が運んだ文物もあったろうけれど、そもそも人間自身が大量に移動していたと考えるほうが、ペルシアブームの説明がつく。その余波が日本に及んだわけである。なお唐の銀器はササン系銀器、特にソグド系銀器の多大な影響を受けているが、同時に「影響を与えてもいる」のだそうだ。文明の交渉は、いつも双方向が基本なのだな。

 展示品99点は全て同館の所蔵品なので、常設展と同様、撮影自由。写真はソグド人俑(白胎加彩胡人)である。大きな荷物を背負って、行商の道行だろうか。



東大寺ミュージアム 特集展示『東大寺と正倉院』(2018年10月17日~11月20日)他

 午後1時過ぎに奈良市内着。半年ほど閉館していた東大寺ミュージアムが、9月15日にリニューアルオープンしたというニュースを思い出して行ってみる。入場してすぐの部屋で、東大寺の歴史を紹介した映像を楽しめるようになった。おそらく『東大寺大仏縁起絵巻』などの画像を使ったもの。英語字幕がついているのはよい試みだと思う。中に入って、久しぶりに日光菩薩・月光菩薩様にお参りする。この二菩薩に向き合うと、どうしても三月堂の不空羂索観音がまぶたに浮かぶ。もと四月堂の千手観音立像もいいのだけれど。

法相宗大本山 興福寺

 そして興福寺へ。お目当ては、まず北円堂の秋期特別公開(10月20日~11月11日)。無著・世親菩薩立像をじっくり拝観する。北円堂の四天王立像(平安時代)はずんぐりむっくりで手足が短く、中国風の甲冑姿なのに足元が草鞋(?)なのもいて笑える。貰ったリーフレットも妙に「ユーモラスな姿」を強調していた。あれ?四天王を入れ替える話もあったような?と思ったら、昨年の東博『運慶』展のときは、無著・世親菩薩立像の周囲を、南円堂の荒ぶる四天王像(運慶作の可能性)が囲んだのだったな。

 次に中金堂を初拝観。黒い瓦、朱の柱、白壁、緑の連子窓が美しい。思っていたより落ち着いた配色に感じた。金色の鴟尾そして風鐸が、夕日にキラキラ輝いている。あーでも中金堂と前庭は、このままずっと柵に囲まれた状態(拝観料を払わないと入れない)になるのかな。開放的な興福寺を覚えている身にはちょっと残念だ。





 中金堂の本尊は金色に輝く釈迦如来坐像(江戸時代)。全く記憶にない仏像だが、伝統ある興福寺本尊で、平成30年の再建にあわせて修理されたとのことでピカピカである。左右に薬王・薬上菩薩立像(鎌倉時代)。あと広い須弥壇の四隅に四天王像が立つ。リーフレットに「かつて南円堂に安置されていた四天王像」という説明があり、いや「かつて」って、ついこの間までじゃないの!とツッコミたくなる。手前の増長天と持国天はいいのだが、後方の広目天と多聞天が遠い。遠すぎる。南円堂では間近に見ることができたのに、これからこの距離を縮められないのかと思うと、とても残念。木造大黒天立像と厨子入り木造吉祥天像(閉扉中)も建物の大きさに合っていない。配置を考え直してほしい。

 拝観を終えて、中金堂の西側のご朱印所の列に並ぶ。「16時45分まで」という貼り紙があったが、16時半頃、並んでいたお客さんを全て建物の中に入れて、カーテンを閉めてしまった。それ以降に来た人には「今日は列が長いので、これでお仕舞いです」と言い渡していた。中に入れた人も、ご朱印は1人1種類にしてもらうなど、言葉はやわらかいが仕切り上手なおじさんがいた。私も「中金堂」だけをいただく。

 さて北円堂のご朱印は、南円堂のご朱印所で扱っているという。もう16時45分を過ぎたので閉まっているかなあと思いながら行ってみると、まだ列があって、特に規制されていない。おそるおそる並んで待つ。結局、17時を過ぎ、17時半を過ぎてもご朱印所を閉めたり、新しく並ぶお客さんを拒む様子はなく、「北円堂」を書いていただくことができた。「遅くまでありがとうございます」と御礼を申しあげたら「いいえ、お待たせして申し訳ありません」と挨拶をいただいた。南円堂の対応は本当に嬉しかったが、これを仕事と考えると、定時に終われるような対応が正しいかもしれないと思い、複雑である。

 17時半からは、中金堂のライトアップが始まった。古典的な音楽に合わせて、くるくると中金堂の色が変わる。品があって美しかった。ああ聖武天皇と光明子にも、あるいは玄宗皇帝と楊貴妃にも、こんな光景を見せてあげたい!









 ずっと見ていたい気持ちを押さえて、夜道を奈良国立博物館(正倉院展の夜間開館)へ向かった。(続く)
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ギャラリートーク・明治の学校建築~高等教育施設を中心に(藤森照信、池上重康)

2018-11-09 22:59:51 | 行ったもの2(講演・公演)
国立近現代建築資料館 ギャラリートーク『明治の学校建築~高等教育施設を中心に』(2018年11月3日 14:00~、藤森照信、池上重康)

 企画展『明治期における官立高等教育施設の群像-旧制の専門学校、大学、高等学校などの実像を建築資料からさぐる』(2018年10月23日~2019年2月11日)のギャラリートーク全5回シリーズの第1回を聴きに行った。初めて聞く資料館で、どこにあるのだろう?と思ったら、池之端の旧岩崎邸庭園に隣接していた。「開館5周年記念」の企画展というから、2013年にできたのだろう。むかしから藤森先生ファンの友人を誘って、湯島でランチのあと、資料館へ向かった。

 展示室のある2階へ上がると、階段前のスペースに50席ほどの椅子が並べてある。ここが会場らしいが、ほとんどの椅子が埋まっていたので、脇のソファをキープして待つ。立ち見を決めたお客さんも10人くらいいた。やがて関係者一行が階段を上がってきて、藤森先生が「え、ギャラリートークって展示品の前でやるんじゃないの」と驚いている。私もそう思っていた。そして、せいぜい1時間くらいかと思ったら、司会の川向正人氏から「約2時間」という発言があって、嬉しいけどびっくり。

 はじめに藤森先生がフリースタイルで喋り始める。いちおう参加者には、展示資料を掲載した小冊子が配られていたので、時々それを参照した。以下、気になって書き止めた発言を写しておく(記憶違いがあったらご容赦)。

 日本の学校建築は、全て政府が面倒を見たことが特徴である。小冊子の「文部省組織・人物解説」というページに掲載されている最初の三人、山本治兵衛(1854-1919)、久留正道(1855-1914)、山口半六(1858-1900)は重要。特に山口半六は、大学南校出身でフランスに留学し、文科省に入る。文科省では大臣から数えて三番目に偉かった。

 日本の近代初期の建築家には、山口半六、辰野金吾、妻木頼黄(つまき よりなか)がいる。山口は文科省、妻木は大蔵省で活躍したが、辰野は工部大学校で多数の弟子を輩出した。その結果、日本の近代建築は全てコンドル(辰野の師匠)に行きつくと言われる。

 (職業的な)建築家は「木」をやらないのが世界の常識である。しかし日本の建築家は違う。はじめは「擬洋風」という不思議な建築をやるが、次第に日本の骨組み技術に近代的な「トラス」を加味した木造洋風建築をつくり出す。

 次に北大の池上重康先生が、展示資料をパワーポイントで紹介しながら解説。時々、藤森先生がフリースタイルで質問やツッコミを入れる。池上先生いわく、小冊子の「明治期官立高等教育機関の変遷」のページを見ると分かるとおり、北海道大学は札幌農学校から連綿と続いている。したがって、どんな資料も北大構内にある。どこもそうだと思っていたら、津軽海峡以南の大学は全く違った。たとえば東大では、医学校のものは医学部に、工部大学校のものは工学部にある。施設部には明治30年代以降の図面はあるが、それ以前はない。「ある」ことは分かっていても、どこにあるか分からない資料が多い。

 というわけで、投影写真を見ながら「これは新発見ですね」「簿冊を1枚ずつ開いていったら、あったんですね」みたいな資料探しの苦労話が興味深かった。また古い建築なら全部いいわけではなく、「これはバランス悪いですねえ」など辛口の批評もあって面白かった。

 建築家は必ずしも図面に署名を残さないので、誰が描いたものか見極めるのはなかなか難しいらしい。「ここにハンコが」という会話を聞いたので、あとで展示資料で探したら、小さな三文判で姓だけの訂正印が押されていたりした。明治年間に東大本郷キャンパスの各校舎の新築に関与したのは、文部省技師の山口孝吉(1873-1937)で、のちに東京帝国大学の営繕課長になった。営繕課長って、現代の施設部長につながる役職だろうが、すごい人がいたんだなあ。

 充実した「ギャラリートーク」が終わって、さて展示を見ようと思ったら「閉館は16時30分です」という。ちょっと待て。意外と広い展示室、展示資料の多さにうろたえる。結局、これはどう頑張っても30分では見切れないとあきらめた。展示はもう1回見に来てレポートすることにする。
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2018年9-10月@東京近郊展覧会拾遺

2018-11-07 21:05:25 | 行ったもの(美術館・見仏)
秋は展覧会シーズンなので、行ったものがけっこう溜まっている。

五島美術館 『秋の優品展-禅宗の美術と学芸』(2018年8月25日~10月14日)

 禅宗寺院を中心に発達した書画や高僧の墨跡、五山版の出版など館蔵の名品約40点を展観。この秋は根津美術館の『禅僧の交流』と合わせて、禅宗に注目が集まって楽しかった。最近は賛を読むようにしているので『政黄牛図』の清拙正澄賛に「海底泥牛角指天」という一行が気になる。古写経手鑑の傑作と言われる益田鈍翁旧蔵『染紙帖』は24面(全部?)公開。大聖武、小聖武、絵因果経の断簡、目無経、二月堂焼経など、すごかった。

東京国立博物館・東洋館8室 特集『中国書画精華-名品の魅力-』(後期:2018年9月26日~10月21日)

 別に後期と明示しているわけではないが、展示替えの後にも行ってみた。根津美術館で見ることの多い『送海東上人帰国図軸』(常盤山文庫所蔵)が珍しく来ていた。因陀羅筆『寒山拾得図軸』(二人を描いたもの)と伝・因陀羅筆『寒山拾得図軸』2幅(縦長の画面に一人ずつ描いたもの)はどちらも可愛い。『二祖調心図』2幅は平台の展示ケースに入っていて、間近でじっくり眺めることができた。

泉屋博古館分館 特別展『狩野芳崖と四天王-近代日本画、もうひとつの水脈』(2018年9月15日~10月28日)

 狩野芳崖(1828-1888)と四人の高弟の特集だが「芳崖四天王」こと岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城のことは全く知らなかった。芳崖の代表作『悲母観音』の左右に展示された『仁王捉鬼図』と『不動明王』は、強そうだけどユーモラスで親しみやすく、明快な色づかいも、なんとなくディズニーアニメ風だと感じた。

神奈川県立金沢文庫 特別展『西湖憧憬-西湖梅をめぐる禅僧の交流と15世紀の東国文化-』(2018年9月22日~11月11日)

 金沢文庫でなぜ西湖なのか。展示趣旨に「金沢八景」という名称は中国の「瀟湘八景」に由来します、とあるけれど「瀟湘」は洞庭湖周辺(湖南省)だから違うだろう、とツッコミたくなる。しかし称名寺には、かつて金沢北条氏が杭州から移植した「西湖梅」の伝説があるそうだ(西湖も洞庭湖もあまり区別がついていなかったのだろうか)。調べたら、昭和20年頃まで称名寺に古木があり、現在は同じ品種の梅の木が泥亀公園に植樹されているそうだ。という縁にちなんで、金沢文庫には珍しく、日本・中国の絵画を多数展示。各種の『西湖図屏風』を見比べることができて、興味深かった。かつて行った西湖の風景を思い出しながら眺めた。

鎌倉国宝館 開館90周年記念特別展『鎌倉国宝館1937-1945:戦時下の博物館と守り抜かれた名宝』(2018年10月20日~12月2日)

 昭和3年(1928)に開館した鎌倉国宝館が、今年で開館90周年を迎えたことを記念し、90年の歴史の中で最も大きな試練となった戦争期に焦点を当てる。時局に合わせた展覧会『元寇展』にも出品された、極楽寺の釈迦如来坐像と十大弟子立像が出ていた。目つきの鋭い十大弟子立像は、東博の『京都 大報恩寺』展で見た快慶作の十大弟子に少し似ている。しかし、なぜか必ず右肩を衣の端で覆っていて、完全な肩脱ぎにしている像が一体もない。興味深かったのは戦時中の事務文書綴や庶務日誌で、昭和20年8月15日に「戦争終結の大詔」の放送を聞いたことが記され、翌16日に「本館内ノ防火用水桶ヲ撤去ス」とあるのが感慨深かった。松根油の採集の話はどこかで聞いたことがあると思ったら、一ノ瀬俊也『飛行機の戦争1914-1945』に出てきたものだ。このほか、常楽寺の文殊菩薩坐像、円応寺の奪衣婆坐像など珍しい仏像を見ることができた。東慶寺の水月観音菩薩坐像は、なぜか宝冠のツインテール部分がなかったので、妙に大人びた感じがした。

国立公文書館 平成30年 秋の特別展・明治150年記念『躍動する明治-近代日本の幕開け-』(2018年9月22日~11月4日)

 この展覧会のポスタービジュアルを見たときは、国立公文書館、だいじょぶか?と心配になった。今年は政府の推進する「明治150年」関連イベントが各地で開催されているが、これほど臆面もない「明治」推しは他に類がないのではないか。展示室内にも、鹿鳴館に集う貴婦人、西南戦争の兵士など、見事に美化・理想化された(日本人に見えない)ビジュアルイメージが山盛りに飾られている。まあ、超絶美しく描かれた明治憲法発布式のシーン(明治天皇と伊藤博文)の前のケースには、植木枝盛の『東洋大日本国国憲案』や『五日市憲法草案』が展示されていたのはよかったし、宮武外骨の『頓智研法発布式』の写真パネルがあったのにもほっとした。
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鎌倉・宝物風入れ2018(円覚寺、建長寺)のうち、建長寺

2018-11-05 22:59:58 | 行ったもの(美術館・見仏)
臨済宗・建長寺派大本山 建長寺(鎌倉市山ノ内)

 宝物風入れ、続いては建長寺。ここも2014年2011年に訪ねているので、リンクを貼っておく。建長寺は入山料500円+風入拝観料500円とちょっとお高め。しかもご朱印が3種用意されていて、「大覚禅師」と「最明寺殿」は風入れ限定、「達磨大師」は平成30年(2018)限定だという。これは3種(300円×3)いただいていくしかない…。ネットで調べたら、このシステムは2016年から始まったらしく、1年限りのご朱印として「杉谷弁財天」(2016)「伽藍神」(2017)が頒布されている。いずれも風入れの会場で拝観できる仏像・仏画だ。え~来年は何だろう。

 大玄関を入ると、左手が方丈、右手方向に「第1会場」の案内がある。そうそう、建長寺は客殿(紫雲閣)の2階が第1会場だった、と思って階段を上がる。広い座敷を展示ケースなどで区切って、ジグザグ式の巡路が設定されている。すぐ目につくのは青磁の大花瓶。頬骨の張った四角い顔の伽藍神もいる。銅製の誕生仏(ただし江戸時代)があるかと思えば、蒔絵箱や茶釜があり、元代の『蓮華図』、明代の『牡丹図』、江戸時代の『関羽図』など、脈絡なく並んでいる感じが、宝物風入れというより道具市みたいで楽しい。文書は、足利尊氏の御教書(長寿寺宛て)や尊氏・持氏御教書(覚園寺宛て)なども建長寺に伝わっているのが興味深かった。

 進んでいくと、座敷の突き当りの床の間が目に入った。大きな白い壁に「墨痕淋漓」という表現がふさわしい、力強い文字。もしやと思ったらやっぱり、金澤翔子さんの書だった。「四十九年一字不説」と読めた。あとで調べたら、悟りを開いた釈尊が、49年間説法を続けたのち、最後に「一字不説(私はひとことも喋っていない)」と述べたという説話に基づくそうだ。さらに金澤翔子さんは、毎年ゴールデンウィークに建長寺で個展を開いていることも初めて知った。うれしい。

 この墨書の前には、フェルトっぽい緋毛氈の上に、銅製のファンキーな獅子形大香炉、宝冠釈迦如来坐像(南北朝時代、ときどき国宝館に出ている)、そして北条時頼坐像が並んでいた。私も畳に座って、小さな北条時頼坐像と向かい合うと、なんだか親しみが湧いてきて可笑しい。

 第1会場を出ると、廊下伝いに並びの座敷に「第2会場」の案内がある。ここは得月楼の2階で、紫雲閣よりさらに新しい感じがした。冒頭の『建長寺伽藍指図』(延宝6/1678年)は、茶色と緑色で描かれた境内の樹々など、実景が想像できて楽しい。「〇〇跡」という表記が目立つなあと思ったら、荒廃した当時の建長寺を見た徳川光圀が、のちの再興の手本とするため記録させたのだという。大変よろしい。あと、外門や三門の額拓本が残されており、明の崇禎元年、竹西という書家によって揮毫されたことを知った。また、宝物風入れの守護神である『白澤図も』あった。隣りが『狸和尚図』だったので、不思議に思ったが、勧進にまわった狸和尚が、旅先で白澤の図を描いて残したという言い伝えがあるそうだ。

 顎のとがった、個性的な面貌の『蘭渓道隆像』(国宝)もあり。一方、木造の坐像は、絵画よりだいぶ穏やかな風貌をしている。この木像は、ふだん仏殿に安置されているが、毎年7月23-24日の開山忌には赤い輿に乗せられ、多くの僧侶とともに巡堂するそうだ。添えられた写真を見て、ぜひ一度、参加してみたいと思った。そのとき、近くにいたお客さんがお坊さんをつかまえて「開山忌って以前は8月だったよね?」と聞いていた。忌日は旧暦の7月24日で、太陽暦の8月に行っていたが(旧盆みたい)2014年から7月に変更したらしい。「我々もまだ体が慣れません」とお坊さんが笑っていた。

 面白いお話を聞かせてもらったなあと思いながら階下へ下りる。紫雲閣の1階は休憩室で、今年もけんちん汁の販売が行われていた。方丈が暗くて静かなので、あれ?と思ったが、近づいてみると何もやっていない(ぐるりと拝観はできる)。ええ~初めて来た2008年は、むしろ方丈がメイン会場で、客殿は付け足しみたいな感じだったのに。前回2014年も、方丈で大きな涅槃図を見せてもらい、お坊さんの説明を聞いたのに。たぶんお客さんが増えたので、広い客殿に場所を移すようになったのだろう。そのほうが快適で安全なのは間違いない。でもあの独特の風情を体験できなくなるのは少し残念である。

 この日は残念ながら雨だったが、東北復興支援を目的としたお店が境内に出ていた。法堂の横で肉まんを買って、おそれ多くも法堂の裏に座って食べる。禅寺に肉まんは不似合い?と思ったが、開山の蘭渓道隆和尚は四川の人だったことを思い出し、まあいいかなと思い直した。


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鎌倉・宝物風入れ2018(円覚寺、建長寺)のうち、円覚寺

2018-11-04 22:55:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
臨済宗・円覚寺派本山 円覚寺(鎌倉市山ノ内)

 久しぶりに鎌倉の宝物風入れ(曝涼)に行ってきた。東京を出るときは曇りだったのに、北鎌倉に着いたときは細かい雨が落ちていた。風入れには不向きな天気だが、確か以前も雨だったことがあるなあと思いながら円覚寺に向かう。山門で入山料300円を払い、風入拝観料500円を払う。受付にカラー写真を表紙にした「風入宝物目録」という立派な冊子が置かれていたので、思わず「それもください」と言ったら、若いお坊さまがにっこりして「これは拝観の方に差し上げています」とおっしゃった。おお、そうなのか。むかしは白黒印刷で文字だけの目録だったのに。

 私は、前回2014年前々回2011年のレポートには、左のような手描きの平面図を添えて、どの部屋で何を見たか、記憶の手がかりとしていたが、もうその心配はなくなった。新しい目録の展示案内図では、どの資料がどの部屋のどの位置にあるか、一目で分かるようになった。そうそう、欲しかったのはこれ!

 

 2014年の記録を参照しながら、変更点などを記録していく。第1会場(方丈)1室は以前と同じ文書類が中心。先週、歴博の展示『日本の中世文書』を見てきたので、「関東御教書」とか「関東下知状」という言葉にいつになく反応してしまう。無学祖元の書状に「国家(コクケ)」という文字があり、後宇多天皇を指す、という解説に感じ入る。高氏(尊氏)開版の『足利版大般若経』及び木箱、鎌倉時代の涅槃図も前回と同じ。

 2室。正面中央には岸駒筆『龍虎図』と『開山仏光国師(無学祖元)像』(ハトがいるやつ)3幅対も同じ。周りには『五百羅漢図』50幅のうち8幅ほど。私の好きな浴室にいく図もあり。なお、4幅は原品とデジタル複製品が並べてあった。工芸品は、ところどころに出ていて、堆朱と堆黒の合子2件が美しかった。

 3室。正面中央には高麗の『被帽地蔵菩薩像』。その両隣を『円覚寺境内絵図』と『尾張国富田庄図』という絵図が占めているのが面白かった。1、2室の展示品は、目のつく位置にプラスチックの番号札と簡単な解説を記した紙が添えられていたのだが、このへんから何もないものがあって、ちょっと戸惑う。実は、展示品の番号は、軸を吊るしている釘(天井近く)の横に必ず付いているので、これを確認して目録を参照すればいいのである。綸旨らしいものがあると思ったら、後醍醐天皇の綸旨だった。尊氏、基氏、持氏など足利家ゆかりの文書多し。

 廊下に出る。狩野栄川院典信などの江戸絵画、『五百羅漢図』の続き(50幅のはずだが全部は出ていないのではないかと思う)、角を曲がると『十王図』、墨画の『十六羅漢図』、それに長大な『洪鐘祭行列絵巻』が広げてある。4室は絹本着色の羅漢図各種。明兆筆『十六羅漢図』は、鎌倉国宝館でよく見たもので、生彩に富み、童子や動物の表情がかわいい。方丈と小書院の間の廊下には五山版など。前回とだいたい一致。

 さて、2014年は大書院(第2会場)の2部屋がお茶席になっていて「抹茶券」を購入しないと入れなかった。今年も入口にお坊さんがいたのだが、何も言われないので、あれ?いいのかな?と思って進んでいくと、一番奥(3室)は普通に展示室になっていた。『夢窓疎石像』『無学祖元像』『無準師範像』に加え、絹本著色の美麗な『虚空菩薩像』、善光寺式の『銅造阿弥陀如来及び両脇侍像』など、円覚寺寺宝の優品が勢ぞろいするプレミアム・ルームである。私は仏光国師(無学祖元)の『遺偈』が何気に好き。手前の1室は文書、墨蹟。足利義満の額草3幅、持氏の額草2幅もあり。

 小書院(第3会場)は絵画の小品、絵図等。かつて境内にあった塔の姿を伝える『華厳塔図』2種が面白かった。これでひとまわりなので、出口に向かうお客さんが多いが、よく見ると反対方向に「第4会場」の案内がある。棟続きの信徒会館の2階が第4会場だ。そしてここに『円覚寺弁天堂洪鐘祭行列図』(天保11/1840年)の板絵4面があった。先日、神奈川県立歴史博物館の『鎌倉ゆかりの芸能と儀礼』展で写真を見たものだ。写真以上に色鮮やかで可愛い。でも不思議なことに、私はこれまで3回風入れに来ているのに、この資料の記憶が全くない。これだけでなく、松平不昧の「慎独」大字幅にも覚えがなかった。近年、宝物に追加されたものなのではないか。

 「風入宝物目録」によれば、第4展示場では、毎年特別展の催行を予定しているとのことで楽しみである。今年は、明治時代に円覚寺管長をつとめた釈宗演(1860-1919)を紹介していて興味深かった。今年2018年が百年遠諱に当たるそうだ。なお、この無料配布の「目録」だが、不要な場合はさりげなく返本できるコーナーが設けられていたのもいい試みだと思う。

 続きの建長寺は別稿で。
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見た目から読む/日本の中世文書(国立歴史民俗博物館)

2018-11-03 22:20:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立歴史民俗博物館 企画展示『日本の中世文書-機能と形と国際比較-』(2018年10月16日~12月9日)

 日本の中世文書の全体像が学べる総合的な中世文書展。古代から現代までを視野に入れた日本の「文書史」になっており、東アジアの文書との比較によって、国際的な視点から日本の文書の特徴も理解できる。展示件数約260点は「初の総合的中世文書展」となった2013年の『中世の古文書』展の約220点を上回るという。前回展示は残念ながら見逃している。ちょうど札幌に住んでいた時期で、東京近県の展覧会を気楽に回れなかったのだ。

 「プロローグ」では、口頭伝達から文書への変化を考える。文書による意思伝達が一般化するのは、701年の大宝律令以降であるが、それ以前から天皇の命令を伝える「宣命」など口頭伝達に基づく文書資料が存在した。次に古代律令国家の文書について、天皇の願文、太政官符、写経司から校生への告文など、各種文書を見ていく。正倉院文書の複製がいろいろ出ていて、そういえば歴博は、正倉院文書の複製費用をクラウドファンディングで募っていたことを思い出した。あと文化庁保管の太政官符に大伴家持の署名があるものが出ていてびっくり。

 中世になると律令の文書形式は形骸化して、公印のない「下文」が多用されるようになり、綸旨や院宣など権力者の「奉書」が公的な文書として機能するようになった。院政期・鎌倉以降の文書が多々並ぶ中で、面白かったのは『高山寺旧蔵聖教紙背文書屏風』。35通の紙背文書を貼り付けた六曲一双屏風で、八条院暲子の女院庁に集積されたものと見られている。源義経の自筆文書に加え、沙弥重蓮(平頼盛!)、平宗盛の書状もあった。宗盛の書状は癖のある仮名書きで、宛先の右兵衛督は平時忠だという。平家贔屓の私にはまぶしいくらい眼福だった。

 いよいよ本格的な武家文書の登場。解説を読んで、どういう形式が尊大で、どういう形式が丁寧かを初めて理解する。袖判(文書の右端に花押)が最も尊大な態度を示すことは直感的に分かるが、日下花押、日下署判などの形式があり、北条泰時と時房が藤原(九条)道家に宛てた書状では、花押を本紙の裏側に据えている(非常に丁寧)。充所(あてどころ、宛名)を事書(ことがき、冒頭の件名)の中に織り込んでいるか、最後に充所を置くか、充所の位置が日付より高いか否か、書き止めに「謹言」「恐々謹言」などの文字があるかなど、チェックポイントが少し分かるだけで、本文が完全には読めなくても、文書から得られる情報がずいぶん変わる。私的な書状は月日だけを記すのが一般的だが、公的な書状には付年号を使用し、書下年号(年月日を一行にしたもの)は厚礼の表れである。また、15世紀半ばにあると室町幕府奉行人が百姓宛てに発給した奉書が現れる。料紙は折紙、奉行人の署名は実名書、年号は付年号という薄礼の形式であるが興味深い。

 さらに、土地売券や譲状、起請文などを文書の機能別に見て行く。京都の「六角室町屋地」の売買・譲与に関する古文書コレクションが面白かった。多数の女性が登場し、女性も花押を用いていたことが分かる。公家の家伝文書の例として、広橋家の改元関係の資料が出ていたのはタイムリーだと思った。

 次に戦国大名などが用いた印判に注目する。武田信玄、織田信長、豊臣秀吉など有名どころの印判状が並ぶ中で、初めて見たのは千葉家黒印で、JALのマークみたいな、かわいい鶴丸印だった。戦国武将の印判状は日付の下に印判を置くことが多いが、北条氏だけは日付全体または日付の上半分にかかるように北条家の家印「緑樹応穏」の朱角印を押した。この方式は、当時の東アジアでは一般的だったが、日本では北条氏とその影響下にあった関東の一部の大名だけが用いたという。へええ、北条家えらい! あと世田谷のボロ市の起源が、北条氏政が世田谷新宿に発給した掟書(楽市掟書)にあるというのも初めて知った。

 実は前半で、もっと東アジア各国の文書との比較があればいいのに、と思っていたのだが、この点は最後のセクションにまとめてある。中国(明皇帝)の外交文書は、当たり前だが実に美麗。表装も豪華だが、文字が美しくて気持ちよい。朝鮮の文書はとにかくデカくて笑った。そして豊臣秀吉は、この朝鮮の文書の影響を受けて、大判で厚い料紙(大高檀紙)を使うようになったという推測は、いかにもありそうだと思った。琉球、安南の文書もあり。さらに写真のみの展示であったが、イルハン王朝(イラン、13世紀)は、モンゴルを通じて中国の影響を受けた文書を作成しており、まるで東アジア文書のように、朱方印が本文のあちこちに押されていた。

 最後に近現代に受け継がれた文書の形として、旧侯爵木戸家資料のいくつかと、同館で使われている「出張願」(だったと思う)の書類が展示されていたのも面白かった。
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東海銘菓・鬼まんじゅう

2018-11-02 23:18:58 | 食べたもの(銘菓・名産)
名古屋在住の友人が買ってきてくれたおみやげ。東海地方のローカルフード「鬼まんじゅう」。



薄力粉もしくは上新粉と砂糖を混ぜ合わせた生地に、ゴロゴロした角切りのさつま芋を加えて蒸した和菓子。東海地方では定番のおやつだそうだが、東京育ちの私は全く知らなかった。ごく最近、その存在を知って、食べてみたいと思っていたところだったので、これが初の実食である。

感想は…なるほどシンプルで、安心して飽きずに食べられる味。

ごちそうさまでした。
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