〇前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波新書) 岩波書店 2019.9
前田健太郎さんは、前著『市民を雇わない国家』がたいへん面白く、その中でも、日本の公務員数が抑制されたために、他の国なら公務員になれた集団すなわち女性が大きく不利益をこうむったという指摘が、強く印象に残っていた。本書は、民主主義の国とされている日本の政治が、なぜ圧倒的に男性の手によって行われているのか、という問いから始まる。さらに著者は「そもそも、男性の支配が行われているにもかかわらず、この日本という国が民主主義の国とされているのはなぜなのだろうか」と問い直す。これには戸惑う人が多いことだろう。私は、大胆な問題設定だな~と(楽しくて)笑ってしまった。
本書は「標準的な政治学」の学説を紹介し、これをジェンダーの視点(女性の視点という意味ではない)から批判しつつ議論を進めていく。すると、たとえば「標準的な政治学」における「戦後日本政治」(90年代以前)は権力が「極度に分散」したことになっているが、政治エリートの圧倒的多数を男性が占めてきた事実の記述がないことがはっきりする。制度上は平等な権利を与えられていても、男性支配の構造が生まれるのは、法律とは別の、見えない規範が社会に存在することに由来する。それは「男性は男らしく、女性は女らしく」というジェンダー規範である。
次に女性の参政権獲得の歴史を簡単に振り返りながら、著者は民主主義の定義を再考する。これは、私たちの常識を問い直すものでたいへん面白かった。サミュエル・ハンティントンは、(1)成人男性の50%以上が選挙権を有している (2)執政部が議会の多数派の支持に基づいているか、定期的な選挙で選ばれている、という2つの基準に基づき、アメリカに始まり、徐々に世界に波及していく民主主義の歴史を記述した。しかし、女性参政権を最低限の条件とする「ポリアーキー指標」で眺めると、先行するニュージーランド(1893年に女性参政権導入)に長い時間をかけてアメリカが追い付く姿が浮かび上がる。
では「ポリアーキー」(複数支配)から、さらに民主的な体制(市民の意見が平等に政策に反映される体制)に進むには、どうしたらよいか。格差と不平等を縮小し、市民が平等に意見を言う環境を整える役割を、福祉国家に期待する主張がある。しかし、歴史上、現実の福祉国家が目指したのは、市場経済の下で働く労働者の格差是正であり、家庭に閉じ込められた女性は視野に入っていなかった。今日では、ジェンダーの視点からの批判を受けて、多様な家族像を前提とした個人モデルの福祉国家も生まれている。
しかし日本の福祉政策には、男性稼ぎ主モデルの政策が色濃く表れている。まあ社会に問題がなければ、世界の中で独自の道を歩み続けるという選択肢もあるのかもしれないが、現実はそうなっていない。いま日本の社会政策の最大の課題は少子高齢化問題だろう。これに対して本書は「福祉政策は変わりにくい」という絶望的な「現代政治学の常識」を突きつける。日本は育児支援が充実する前に高齢化が進行し始め、高齢者の数が多くなることで、保育サービスや児童手当など家族関係支出の増額へ舵を切ることが困難になってしまった。対照的に、早い段階で仕事と育児の両立支援を整えることで少子化を食い止めたスウェーデンの社会保障支出のグラフを見ながら、何とも暗澹とした気持ちになった。
それでも政策は変えることができるはずだ。日本の政策が変わらないのは、拒否権プレイヤーが多くて、首相のリーダーシップが発揮しにくいからだという主張がある。しかし日本の政策過程では、首相も拒否権プレイヤーも男性である。「男性の首相が男女の不平等への取り組みを語る時は、往々にして、それ自体が目的となるわけではなく、別の目的を実現するための手段として政策が浮上する」という指摘には、そう、そのとおり!という共感を感じた。
そこで、女性のリーダーシップが求められる。ここで「女性の」リーダーシップというのは、従来の男性稼ぎ主モデルの福祉政策を転換できる、ジェンダー視点をもったリーダーという意味であって、性別が女性であるか男性であるかは問わなくていいと思う。とはいえ、そうしたリーダーは女性議員の中から(あるいは女性議員の支持によって)生まれる可能性が高いので、最終章は女性議員を増やす方策と意義について論じられている。
少し私的な雑感を交えて書かれた「おわりに」もいい文章。フェミニストは政治学の敵ではない。(フェミニストの批判は)政治学をもっと豊かな学問にしたいと願うからこそ行われてきた、というのは正しい。もっと多くの男性政治学者がこう感じてくれたらいいのに、著者はよほど例外的に、フェミニズムとよい出会いをしたのだなあと思った。