名僧を世に送り出した日本史に刻まれる大寺「比叡山延暦寺」は平成6年に世界文化遺産に登録されました。
比叡山には延暦寺と言う名の建物は存在せず、比叡山そのものが延暦寺を表しているようです。
その寺域は広大で、東塔・西塔・横川の3地区があり、標高848mの山中に200を超える建物があり、そのほとんどが滋賀県ですが一部は京都府にまたがっています。
今回は、広大な寺域の中の東塔をさわやかな風に吹かれながら歴史を探索してみた。
参道の各所に「比叡山ぶらり文学散歩」の名で、多くの文学者が比叡山を訪れ、その様子をそれぞれの作品の中に表した解説が興味深かった。
東塔には、比叡山を代表する国宝の総本堂「根本中堂」があり、ご本尊秘仏薬師如来をまつる宝前に1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が光り輝いていました。
その他それぞれの一宗を開かれたお祖師像が安置されている大講堂をはじめ、戒壇院や文殊楼、法華総持院、阿弥陀堂など重要な堂塔が数多く集まっていました。
延暦7年(788)、現在根本中堂が建つ地に、青年僧最澄が一乗止観院を創建し、自刻の薬師如来像を安置した。延暦寺の創始である。 のち、最澄が天台宗の開祖となり、当代一流の高僧として名を成すに従い、延暦寺も宗派の総本山として隆盛を極めたようです。
平安時代には、白河法皇が「わが意のままならぬもの」として延暦寺を挙げたとのことです。
それは、僧兵の力を背景にしたその勢いは、近隣の諸侯を脅かすほどであったからのようです。
そんな事で、戦国期の元亀2年(1571)、織田信長によって全山焼き討ちにあったとの事です。 これで延暦寺は根本中堂をはじめ建物の大半を失い、その後は政治の表舞台から去り、その強靭な精神力はひたすら仏教に向けられ、日本仏教の代名詞としての地位を保ったまま現在に至っています。
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