昨日は雨の中、大佐渡山地のドンデン高原から佐渡の最高峰である金北山(1172m)を全員が縦走し、大満足の 1日でした。 ただ、金北山山頂付近では雨脚が強まり、長い雪渓を直登したりと大変でしたが、皆さんのパワーには驚きました。 まだまだ行けます。 今日は最後の日になってしまいましたが、昨日が嘘のような好天となり皆さんパワー全開。 宿の 7時の朝食前に 6時から近くを歩こうと決めていたら、何と 5時頃から海岸線を散歩されていました。6階に居て声が聞こえるのだから、凄いです。
まず、相川北沢町にある「北沢浮遊選鉱場」に向かいました。 佐渡が初めての私は、佐渡って島もそうだが見るもの全てがビッグであると感じました。
周囲 281.7Km、面積 855.1K㎡で伊豆大島の約 10倍、東京 23区・淡路島の約 1.4倍、沖縄本島の 3分の2という大きさです。
日本で最初に金銀鉱石の浮遊選鉱法を採用し、昭和 11年に工場建設に着手、その後大増産計画に伴って設計を変更し完成しました。 施設完成後の鉱石処理鉱量は 5万トン以上に達し、この設備規模は「東洋一」とうたわれています。
佐渡の相川金銀山は、江戸時代から1989年の操業停止まで、国内最大の金銀山として 78トンの金と 2,330トンの銀を産出したとのことです。 江戸時代には徳川幕府の管理下で、採掘から小判製造に至る一連の作業が行われ、明治維新以降は、西洋から最新技術が導入され、日本の近代化に大きく貢献しました。 平成 22年には「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称で、世界遺産暫定リストに記載され、世界遺産登録を目指しています。
この近くは、徳川幕府を支えた天領のまちで歴史情緒の見所満載でした。
次に京町通りへ、金銀山が盛んだった頃の繁華街で、佐渡金銀山と佐渡奉行所を結んだ当時のメインストリート。
そこに昭和 29年に開設され、昭和 47年まで使用されていた旧相川拘置支所あり、
支所前の住いの方が管理され運良く開けて下さり、事務所棟、炊事・倉庫棟、独居房棟の 3棟を見学して来ました。 金の盗人が収容されたようです。3畳ほどの部屋でした。
京町通りを海に向かって下り、佐渡奉行所跡へ。 江戸時代、相川に金銀の大鉱脈が発見されると、徳川幕府は佐渡を直轄地(天領)とし、相川に奉行所を置きました。
各地から移り住んだ人であふれた鉱山町「相川」は 栄華 を極め、佐渡で産出された金銀は幕府の財政を支えたとのことです。
宿に戻り、朝食を済ませ 8時10分に出発。 県道 45号線を北に進み、変化に富んだ海岸の景観が楽しめる「尖閣湾揚島遊園」に向かい、高さ 30mにも及ぶ絶壁と、海面に屹立する岩の造形は絶景でした。
また、大崎灯台に掛かる遊仙橋は「君の名は」の舞台となった所から「真知子橋」の別名がありました。
再び県道 45号線を戻り、相川市街から大佐渡スカイラインを登り、ユネスコ世界文化遺産候補である史跡「佐渡金山」に立ち寄りました。
江戸時代初期に、その頂部が人の手で掘り進められた露頭堀跡で、山を斧で割ったように見え、佐渡金銀山の象徴となっており「道遊の割戸」と呼ばれております。 ここで鋳造された小判は、主に北国街道を通り 400キロの道のりを経て江戸まで運ばれた。 これを「金の道」とよぶ。 相川のとなりは、江戸だったのかもしれない。
佐渡スカイラインを登り詰め、白雲台交流センターに 10時到着。
昨日と違い、雨の中必死で歩いた金北山が遠望できた。 あんな遠くから良く歩けたと、皆さん感動しきり、自信を増されたのではないでしょうか 直ぐ近くに山頂が見えますが、望遠で撮影したためです。
10時 20分、コンクリで打たれた急な防衛省管理道路を下り、国道 350号線に入り両津港向けに移動。 折角の佐渡であり、特別天然記念物であるトキを見ようと「トキの森公園」に向かいました。
トキの学名は「ニッポニア・ニッポン」、ペリカン目:トキ科の中の一属一種に分類される鳥だそうです。 かつては日本中に生息していた鳥だが、20世紀前半に激減し、佐渡は日本産最後のトキが生息していた島とのことです。 11時半出発。
追伸 ⇒ 平成 29年 5月30日の読売新聞 朝刊に「トキ保護センター」でトキのヒナが誕生したとの記事を読みました。 ワ~ィ おめでとう ございま~す。
カーフェリー「おけさ丸」出港が 12時 40分であり乗船場で待機。 お世話になったホテルと金北山。
沢山の思い出を胸に山行・観光が終了しました。 お疲れ様でした。
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