今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念するために、後人が選んで、それと名付けたもののようです。
寛文4年(1664)小田原の崇雪(そうせつ)がこの地に五智如来像を運び、西行寺を造る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695)俳諧師として有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し鴫立庵(しぎたつあん)と名付け、第一世庵主となりました。 その後も有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世「鍵和田釉子(かぎわだゆうこ)」現庵主まで続いているとのことであります。
五智如来の石像も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。 五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝の五仏を言い、その像は庵後部の丘の上に、東面して並んでいます。
西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、『こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ』という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。
その言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、上記の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。
現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があり、庵室については大淀三千風が建てたもので、俳諧道場については三世庵主「鳥酔(ちょうすい)」が明和二年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果 鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられています。
鴫立庵室は歴代庵主の住まいとして使われていました。 そして増築された十畳間には「俳諧道場」の扁額が掲げられ、鴫立庵正庵であり俳諧道場であることを示しています。 この道場は京都の落柿舎、滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つであります。
また、江戸時代初期に小田原の崇雪という人が西行の歌にちなんで「鴫立沢」の標石を建てたと伝えられ、その標石の裏に「著盡(ああ)湘南 清絶地」と刻まれており、この標石が湘南という言葉の始まりというか、由来発祥の地として注目されているようです。
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