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大磯随想・世界と日本 (中公文庫プレミアム) |
吉田 茂 | |
中央公論新社
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名士の保養地
としての歴史を持つ、
❝大磯❞
を散策しました。 町の北西部には東海道
新幹線と小田原厚木
道路が走り、南部には東海道
本線と国道 1号線が走り、現在の町は三分割された状況です。
古代は豪族「師長国造」(しながこくぞう)の支配領域であった。 律令体制の整備に伴い相模国の餘綾(よろぎ)郡に属した。町東部には高句麗(こうくり)からの渡来人が移り住んだ歴史があり、高麗(こま)山・高来(たかく)神社・唐ケ原などの名称は彼らに由来するとされています。
中世に相模国の国府が置かれていた。 江戸時代には東海道の宿場町として栄え、近代以降は温暖な
気候により保養地として注目され、ドイツ人医師「ベルツ」により紹介されていた
海水浴
を普及させるための適地を探していた陸軍軍医総監「松本 順」により海水浴場として開かれた。
大磯駅前洋館 平成 24年 9月 13日に指定された景観重要建造物(旧木下家別邸)
明治中期から昭和初期に要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が多く建てられた。 特に
伊藤博文、
吉田茂のそれは特に有名である。 この他に
山縣有朋や
西園寺公望、
大隈重信、
陸奥宗光、
岩崎弥之助、
安田善次郎といった政財界要人の別荘が立ち並んだ。
次に駅から国道 1号線を渡り、父の仇を討ったことで名高い
曽我兄弟
のいわれある宮経山「延台寺」寄りました。
兄弟は伊豆の豪族 河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)の子。
兄は十郎祐成(すけなり)、弟は五郎時致(ときむね) 1176(安元 2)年 父 祐泰が伊豆の奥狩場で工藤 祐経に殺されたのち、母が曽我 祐信に再婚したので曽我氏を称した。
この延台寺には、曽我十郎祐成を賊の矢から防いだ「虎が石」といわれる身代わり石や曽我兄弟の木像が法虎庵曽我堂に安置されています。
石の上には綺麗に刺繍された赤い布で覆われて見えませんでした。
次は延台寺にほど近い、船着山「地福寺」(じふくじ)真言宗東寺派のお寺に立ち寄りました。 境内には香り良い紅梅・白梅が咲き誇り、その下に文豪『島崎藤村』夫妻のお墓がありました。藤村の本名は春樹。生まれは岐阜県中津川市馬籠、旧中山道の馬籠宿で本陣、庄屋、問屋を兼ねた島崎 正樹の四男として生まれました。
大磯には旧島崎 藤村邸があります。小さい素朴な冠木門(かぶきもん)と割竹垣に囲まれた小庭に建てられた三間の平屋民家。
~余にふさわしき閑居なり~
大磯がお気に入りで「この書斎を離れる時は自分がこの世を離れる時だ。」と云っていたそうです。 馬籠の永昌寺に分葬されているとのことです。
❝夜明け前❞
「木曽路はすべて山の中である」
で始まる長編小説は有名ですね。
地福寺より国道1号線を二ノ宮よりに進み、新島 襄(1843~1890)終焉の碑へ。
教育家である
「新島 襄」
は以前から大磯に来たいと思っていたようで、明治 22年(1889)11月病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年 12月 28日大磯で静養し再起を計ることにした。
海岸にほど近い百足屋(むかでや)旅館の松林に囲まれた別館の愛松園にて再起の希望を持ち静かに療養していたが、明治 23年(1890)1月 20日
危篤に陥い、妻の新島 八重も
東海道線で京都から大磯にやって来た。
『グットバイ、また会わん』
襄が八重に送った最後の言葉だそうです。
1月 23日午後2時 21分、46歳 11ヶ月の生涯を閉じ、大磯が終焉の地となった。 終焉の碑は門下生が集い、旧百足屋の敷地内に建てられた。
襄は明治 8年(1875)京都府に同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画した。
次は更に二ノ宮よりに進み鴫立庵へ。
西行法師
の《心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮》と詠まれた歌にちなみ、小田原の崇雪(そうせつ)が昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に石仏の五智如来像をこの地に運び草庵を結び、初めて鴫立沢の標石を建てたと言われています。
京都の落柿舎
、
滋賀の無名庵
、と並び日本三大俳諧道場であります。
大磯中学校付近には旧東海道の松並木が残っています。その少し先に旧伊藤 博文邸滄浪閣があります。 この付近の国道 1号線と西湘バイパス間の松林の中には塀で囲まれていますが、別荘地「大磯」の雰囲気が感じられます。
伊藤 博文
(1841~1909)は、初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法を起草するなど、立憲政治の黎明期に大きな役割を果たした。
明治 29年に別荘を小田原から移転し、
「滄浪閣」
と名付けた。 関東大震災後に再建された建物のうち、洋館と和館部分が当時の状況を留めている。
別荘地大磯の代表的建物として、町の指定有形文化財となっています。
丁度、お昼の時間に旧吉田 茂邸に到着しました。
旧吉田邸は、明治 17年に吉田茂の養父「健三」が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和 19年頃から、その生涯を閉じる昭和 42年まで過ごされたそうです。
銀の間(寝室兼書斎)ここで吉田は最後を迎えたそうです。
その住いは吉田 茂没後、西武鉄道(株)へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていました。 ローズ ルーム (食堂)
平成中頃より神奈川県や大磯町により近代政治史の歴史文化遺産とし旧吉田 茂邸の保存・活用が検討され、隣接する「県立大磯城山公園の拡大区域」として整備することになりました。
新館 2階からの眺望
しかし、計画検討の最中、平成 21年 2月本邸が
火災で焼失してしまいました。
紅白梅と兜門
消失を免れた日本庭園や歴史的資源(兜門
・七賢堂
など)、そして大磯丘陵に連なる貴重な緑地を保存活用するため、平成 21年 7月に都市計画に位置付けされ、県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建しました。
この吉田邸には、政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」
を行い、またアデナウアー西独首相や当時の皇太子殿下夫妻などの国内外の要人が招かれたそうです。
また、吉田 茂没後に大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されました。
こんな自分たちの身近な所に歴史に残る素晴らしい場所があった事に驚きました。
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