新潟・中越地震、それは2004年(平成16年)10月23日17時57分に発生した。マグニチュード6.8、深さ13キロの直下型地震で、阪神淡路大震災と同じく震度7は、日本での観測史上最大のもの。
先に紹介したとおり、本当にのどかな山あいの里・旧山古志村(=村)でも震度6強を観測し、その地形もあって甚大な被害を被った。
死者5名、国・県道の寸断25か所、135か所で土砂崩壊、全村域で電気の寸断、断水、地すべり329か所、家屋倒壊・半壊570戸、そのほかにも農地の流出・埋没、養鯉業の錦鯉や、闘牛を含めた畜産業も大きな被害を受けたが、なにせライフラインが完全に寸断されたのが大打撃だった。
(写真上・下:山古志支所の隣にある「やまこし復興交流館・おらたる」では、震災の直後から避難、復興などの村や村民の様子が紹介されている。)
そんな中、村内被災状況を自分の足で歩いて確かめ、被災の次の日に一人「全村避難」を決めた人物がいた。当時の村長である長島忠美(ながしま・ただよし)氏である。
長島氏は、49歳で村長選に初当選し、1期目の途中でこの中越地震に遭遇する。全村避難は、若い村長の大決断であるが、誰にも相談しなかったのは他に責任を押し付けたくなかったからだという。
全ての村人が、我が家を離れ、村での生活を捨てる苦渋の措置。自衛隊の輸送ヘリに乗って隣の長岡市に避難し、余震が続く中、不便で不安な避難所での生活が始まるのである。
(写真下:被災時の村長が身に着けていたものを展示、また復興のためのポスターでは自らがモデルを務める。)
長島氏は、被災した村に通い陣頭に立って復興や陳情に走り回る。しかし、夜遅くになると、自分の避難所のテントに戻り、村幹部と打ち合わせをしたり、記録を付けたりしていたという。
各避難所は各地区ごとで分けるように指示しコミュニティを重視した。そこには住民の声を聴くために「頑張れノート」が置かれ、記された村民の不安や苦情に対し、遅く帰ったテントの中で村長自ら返事を書いていたという。
2007年12月31日、全ての村民が避難所(仮設住宅)を去るのを見届けて、最後の一人として長島氏が避難所を後にしたという。とことん村を愛し、村民に寄り添う姿、全村避難の責任を自ら負っていたんでしょうね。(続く)
(※長島忠美=長岡市の合併後、衆議院議員に当選(比例・北陸信越ブロック)、2012年の総選挙では新潟5区で出馬し田中真紀子氏の復活を許さない圧勝、2014年復興副大臣就任、2017年8月66歳の若さで脳卒中で他界。)
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