中山隧道は長岡市山古志地区と魚沼市を結ぶところにあることは紹介したとおり。この山古志という場所(旧山古志村=村)を少し紹介しておきたい。
平成の大合併で、新潟県古志郡山古志村は長岡市に編入されることになった。平成17年(2005年)のこと。一郡一村という珍しい形態であったが、合併前の人口は2,000人を割り込んでいたと思われるので、新潟県では粟島浦村に次いで二番目に小さい村であった。
先に触れたように四方を山で囲まれており、長岡、栃尾、小千谷、魚沼と東西南北の峠道を経なければここへは入れない。加えて、冬は3メートルを超える豪雪地帯。山肌に民家が点在し、平らな土地はほとんどなく、谷に向かって棚田が広がる風景は日本の原風景とも呼ばれるが、居住環境としてはかなり厳しい。
産業は錦鯉の発祥の地ということで養鯉業と牛の角突きや棚田風景を売りにした観光であるが、林業のほかは山菜などを採取して販売するといった細々としているものの、牧歌的な風景とのどかで人情味の熱い人柄・土地柄を求めてやってくる都会人も多くいた。
そんな村を、合併前の2004年10月23日に発生した「新潟中越地震」で村全体が大きく揺れた。そう、上越新幹線が脱線したり、土砂崩れ現場から2歳の男の子が92時間振りにレスキュー隊に救助されたあの大地震である。
震源は長岡市の旧川口町で震度7.村では竹沢地区で震度6強との記録があるが、役場に設置されていた震度計は激しい揺れで壊れてしまったほどだったという。各地で家屋の倒壊、道路の寸断、四方の山々もあちこちで山崩れ、土砂崩れは発生した。
村の中心を流れる芋川でも大規模な山崩れにより、土砂が川をせき止める「河川閉塞」が各所で発生。下流では土石流の危険が、また上流では土砂や川の水が堆積し、二次災害が発生する事態が襲った。(写真上:山古志地区木籠(こごも)のメモリアルパーク、写真下:同じく木籠の「郷見庵」の展示写真)
完全にライフラインが寸断された村では「全村避難」を決めて、隣の長岡市へ移動。震災後に実施された国勢調査では、村の人口は僅か10人。長岡市との合併が決まっていたため、山古志村の閉村式も避難先の長岡市で行われた。
角突きの牛が崩壊した小屋から逃げ出し、自衛隊のヘリで救助されたという話や、長岡市のグランドに避難した方の中には車中で寝泊まりすることによって引き起こされる「エコノミー症候群」がこの地震によるり注目されることになる。(続く)
平成の大合併で、新潟県古志郡山古志村は長岡市に編入されることになった。平成17年(2005年)のこと。一郡一村という珍しい形態であったが、合併前の人口は2,000人を割り込んでいたと思われるので、新潟県では粟島浦村に次いで二番目に小さい村であった。
先に触れたように四方を山で囲まれており、長岡、栃尾、小千谷、魚沼と東西南北の峠道を経なければここへは入れない。加えて、冬は3メートルを超える豪雪地帯。山肌に民家が点在し、平らな土地はほとんどなく、谷に向かって棚田が広がる風景は日本の原風景とも呼ばれるが、居住環境としてはかなり厳しい。
産業は錦鯉の発祥の地ということで養鯉業と牛の角突きや棚田風景を売りにした観光であるが、林業のほかは山菜などを採取して販売するといった細々としているものの、牧歌的な風景とのどかで人情味の熱い人柄・土地柄を求めてやってくる都会人も多くいた。
そんな村を、合併前の2004年10月23日に発生した「新潟中越地震」で村全体が大きく揺れた。そう、上越新幹線が脱線したり、土砂崩れ現場から2歳の男の子が92時間振りにレスキュー隊に救助されたあの大地震である。
震源は長岡市の旧川口町で震度7.村では竹沢地区で震度6強との記録があるが、役場に設置されていた震度計は激しい揺れで壊れてしまったほどだったという。各地で家屋の倒壊、道路の寸断、四方の山々もあちこちで山崩れ、土砂崩れは発生した。
村の中心を流れる芋川でも大規模な山崩れにより、土砂が川をせき止める「河川閉塞」が各所で発生。下流では土石流の危険が、また上流では土砂や川の水が堆積し、二次災害が発生する事態が襲った。(写真上:山古志地区木籠(こごも)のメモリアルパーク、写真下:同じく木籠の「郷見庵」の展示写真)
完全にライフラインが寸断された村では「全村避難」を決めて、隣の長岡市へ移動。震災後に実施された国勢調査では、村の人口は僅か10人。長岡市との合併が決まっていたため、山古志村の閉村式も避難先の長岡市で行われた。
角突きの牛が崩壊した小屋から逃げ出し、自衛隊のヘリで救助されたという話や、長岡市のグランドに避難した方の中には車中で寝泊まりすることによって引き起こされる「エコノミー症候群」がこの地震によるり注目されることになる。(続く)
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