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100歳を迎える大河津分水と良寛・長善館とのつながりは?

2022年08月13日 | 旅行記・まち歩き


大河津分水が通水100周年を迎える。通水記念日が8月25日ということで、それを間近にして大河津資料館を訪ねてみた。
館内でも100周年の記念イベントがいろいろと紹介されている。何かネタになりそうなイベント、あらたな発見につながりそうなイベントを探すが、その中で気になったのが「6館リレー展」。6つの資料館・博物館で大河津分水に関する企画展を開催するというものだ。
ただ、その中で気になるのが「分水良寛史料館」と「長善館史料館」。良寛は名前はしているものの、大河津分水とどんな接点があるのか?長善館は名前すら聞いたことがなかった。あまり期待をしないで、スタンプを集めることを目的に向かってみることにした。



分水良寛史料館(写真上)は分水の市街地にひっそりと建つ。お昼時ということなのか、来館者は自分だけ。広い資料室一室に良寛の書などが並べられている。良寛はご承知のとおり新潟・出雲崎出身の僧侶。出家して岡山・円通寺の国仙和尚のもとで修行後、越後に戻り旧分水町(現・燕市)国上寺の五合庵に住み着く。
そう、ここは今では大河津分水を見渡せる場所でもあり、大河津分水開削以前の良寛は、周辺を回りながら人々を親しく交流していたというが、特に毎年のように信濃川の洪水に悩まされる農民に心を寄せいたというのである。 以前「円上寺隧道」について紹介した。
晩年は島崎川の近く(旧和島村、現・長岡市)に住んだこともあり、大河津分水や円上寺隧道の先駆けとなった「須走川間歩(その後、間歩(隧道)の崩落により、あまり機能しなかった)」の完成を、農民とともに喜んだ歌なども残している。



長善館史料館(写真上)は、粟生津(旧吉田町、現・燕市)の集落内のひっそりとした場所にある。ナビとかがないとなかなかたどり着けない場所にある。駐車場からだと、旧館が先に見えてくるので、立派な史料館はさらにその奥に静かにたたずむという感じ。
長善館とは幕末から明治期の私塾。北越の最高私学と言われ、1,000人以上の門下生は勤王の志士、漢学者、医学者、政治家、文人、教育者、実業家など、揺れ動く幕末時代から明治維新などの場面で指導的人物を多数輩出したことから、「越後の松下村塾」と言われた。
その門下生に高橋竹之介がいた。信濃川の横田切れ(洪水、1896年)をきっかけに「北越治水策」を当時の有力政治家山形有朋・松方正義に提出。これがきっかけとなり、信濃川分水の必要性が広く説かれていくことになる。大河津分水の生みの親みたいな人を輩出した私塾なのでした。勉強不足でゴメン!


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