『ライトノベル完全読本』『ライトノベル完全読本2』を読んでいると、批評という行為への関心が異様に高いことに気がつきます。読本の1では冒頭に「これからはライトノベルにも批評が必要だ」とぶち上げ、それに対してインターネット等で(特に作家方面から)「批評なんかいらない!」という声が相次いだのです。本そのものへの評価は高いにもかかわらず、不思議なくらい。読本の2でも巻頭で新城カズマが「反・ライトノベル書評宣言」をし、対談で賀東招二が「批評は不要なのだ」と主張するなど、その余波は続いています。
確かに書き手には批評や分析はいらないと思います。周囲の雑音を気にせずどんどん書いていけば良いのです。
本来のターゲットであるヤングアダルト層にも不要。ジャンル区分とかに拘らず面白いと思うものを読めばいいだけ。
でも、ヤングアダルト層を何十年も前に抜けてしまった読者層には必要なものだと思うのですよ。大森望が週刊新潮で『イリヤの空・UFOの夏』や『空の中』のレビューをするように、ライトノベルとひとくくりにされてしまう作品群の中にも、世代を超えて面白いと思わせるものはあるんです。だから、アニメ絵の子供向けノベルと頭から思いこんでいる人たちに少しでも関心を持たせ、1冊でも多く本を売るためには、批評とか分析といった権威付けをする手法もやむを得ないんじゃないかな。もったいないから、(たとえ自分にとって直接の損得にならなくても)売れるものはきちんと売る努力をしよう。
同じ本での桜坂洋×山本弘の対談で山本弘が言ってます。
「ライトノベルっていうのはね、小説とみなされていないんですよ。(中略)一生懸命書いてたはずなのにね、そういうのを小説として認められていないっていうのはね、ちょっとショックでしたよね」
自分が面白いと思う作品を手に入れるためには、つまらないものに文句を言うだけでなく、面白いものはどんどん誉めると共に、同じように面白いと思ってくれる仲間を集めること。それが大事。いくら面白くても素晴らしくても、売れないものは消えてしまうのです。
子供だましと思われ、右から左に消えていくには惜しい作品が多いと思います。だから書評だって批評だって利用すればいいんですよ。
いわゆる便乗本、タレント本と違いますからね。確かに「人のふんどしで相撲をとる」みたいなところはありますけど、それをいうなら世の中、大半はそういうものであって、まだ反論の場がちゃんと与えられ、自分たちの宣伝にもなるだけマシです。完全読本でもスゴイでもめった斬りでも利用すればいいし、ライトノベル大賞でもなんでも作ってもらえばいい。メリットとデメリットを秤にかけて有利な方をとればいい。ま、クリエイターではない人間の意見ですけどね。
確かに書き手には批評や分析はいらないと思います。周囲の雑音を気にせずどんどん書いていけば良いのです。
本来のターゲットであるヤングアダルト層にも不要。ジャンル区分とかに拘らず面白いと思うものを読めばいいだけ。
でも、ヤングアダルト層を何十年も前に抜けてしまった読者層には必要なものだと思うのですよ。大森望が週刊新潮で『イリヤの空・UFOの夏』や『空の中』のレビューをするように、ライトノベルとひとくくりにされてしまう作品群の中にも、世代を超えて面白いと思わせるものはあるんです。だから、アニメ絵の子供向けノベルと頭から思いこんでいる人たちに少しでも関心を持たせ、1冊でも多く本を売るためには、批評とか分析といった権威付けをする手法もやむを得ないんじゃないかな。もったいないから、(たとえ自分にとって直接の損得にならなくても)売れるものはきちんと売る努力をしよう。
同じ本での桜坂洋×山本弘の対談で山本弘が言ってます。
「ライトノベルっていうのはね、小説とみなされていないんですよ。(中略)一生懸命書いてたはずなのにね、そういうのを小説として認められていないっていうのはね、ちょっとショックでしたよね」
自分が面白いと思う作品を手に入れるためには、つまらないものに文句を言うだけでなく、面白いものはどんどん誉めると共に、同じように面白いと思ってくれる仲間を集めること。それが大事。いくら面白くても素晴らしくても、売れないものは消えてしまうのです。
子供だましと思われ、右から左に消えていくには惜しい作品が多いと思います。だから書評だって批評だって利用すればいいんですよ。
いわゆる便乗本、タレント本と違いますからね。確かに「人のふんどしで相撲をとる」みたいなところはありますけど、それをいうなら世の中、大半はそういうものであって、まだ反論の場がちゃんと与えられ、自分たちの宣伝にもなるだけマシです。完全読本でもスゴイでもめった斬りでも利用すればいいし、ライトノベル大賞でもなんでも作ってもらえばいい。メリットとデメリットを秤にかけて有利な方をとればいい。ま、クリエイターではない人間の意見ですけどね。