ウィルキー・コリンズ/中村能三訳 1962年発行・1970年上下合本 創元推理文庫版
丸谷才一のエッセイ選文庫「膝を打つ」を読んでたら、この「月長石」をやたらほめている一篇があった(「長い長い物語について」)。
いわく、
>いや、ミステリーの愛好者と自負しているほどの人なら、何も長い長い物語を特に好むたちでなくとも、これは絶対読む必要があるだろう。(略)
>『月長石』は悠々と進み、ほぐれてゆく物語である。が、それにもかかわらず、読者は決して退屈しないのだ。コリンズの力量はまったく恐ろしいくらいであって、これならあのディケンズが彼から影響を受けたのも無理はないと、誰でも感心するだろうと思う。
ということである。
名前はずっと以前から聞いて知ってたんだけど、いままで読んだことなかったんだが、この薦めかたにふれて、やおら読まなくてはという気になった。
原題の「THE MOONSTONE」は、物語の中心になる大きな黄色いダイヤモンドのこと。
インドの寺院の宝だったんだが、1799年の戦争のどさくさのうちに現地から誰かが持ち去って英国にわたってきて、登場人物のひとりに贈られた1848年のある晩に、屋敷から紛失してしまうという事件が起きる。
この謎の解決のために呼ばれたのが、
>全身これ骨と皮ばかりと言いたいくらい、みすぼらしいまでにやせていた。こざっぱりとした黒服に白のネクタイをつけ、顔は斧のように鋭く、顔の皮膚は秋の朽ち葉のように、かさかさして黄色かった。冷たい灰白色の目は、ふと目と目がぶつかると、相手自身さえ知らないことまで見通そうとするような、こちらをどぎまぎさせるようなところがあった。
という外貌をした、白髪まじりの初老の男、カッフ部長刑事。
このひとがホントに有能な探偵かどうかは知らないけど、おもしろいのは、こうやって部長刑事の到着のときの模様を紹介した語り手、舞台となるヴェリンダー家に勤める70歳を越えた老執事ガブリエル・ベタリッジの筆による語り口である。
文庫で770ページある長い物語は、複数の語り手によってつなげられていくんだけど、最初の300ページをうけもつこの執事の手記の部分のおもしろさに、ぐいぐい引き込まれていくのは誰も同じだろう。
丸谷才一は先にあげたエッセイで、
>(略)彼がその各々の語り手の性格をじつにくっきりと見せていること、および執事ベタリッジと部長刑事カッフという不朽の人間像を造型したことは、どのように賞讃しても過褒の言とそしられることがないだろう。
と作者の物語のつくりを称賛している。
たしかに、たしかに。推理小説としておもしろいかどうかは私にはジャッジを下すことはできないけど、小説として十分おもしろい。
とても1868年に書かれたものとは思えない、こういうの不朽というんだろう。
どうでもいいけど、ヴェリンダー卿の娘で月長石の正当の持ち主になるはずだったレイチェルの性格について、
>一般に若い女が自分の関心をそそる話をきかされた場合、最初の本能として、さんざ質問の雨を降らし、それから駆けだして行って、誰か親しい友だちにすっかりそのことを話してきかせるものである。ところが、レイチェル・ヴェリンダー嬢の最初の本能は、同じ場合でも、自分の中に閉じこもり、ひとりでじっと考えることであった。(略)
と語られる一節があるんだけど、前段の「一般に若い女」のことを言ってる部分は、こないだ読んだ「男は邪魔!」の女の脳に関するくだりと一致してて、妙にうなずけるものあった。