丸谷才一 昭和五十三年 新潮文庫版
前に『完本 日本語のために』を読んだときに、完本という看板に偽りありで元々の旧版にはあったものが大きく削られちゃってることに気づいた。
そのあと『夜明けのおやすみ』という編集本を読んだときに、そのカットされたもののうち二つを読んだんだが、たいそうおもしろかった。
というわけで最近になって、この文庫を地元の古本屋で手に入れた。
私が読みたかったのは「当節言葉づかひ」という章で、けっこう量あって本書の半分くらいのページ数を占めていた。
「総理大臣の散文」ってのは、ときの田中角栄の『日本列島改造論』の文章をとりあげたもので、「厄介な言ひまはし」とか「凝つたあげく意味が判らなくなつて」とか指摘して、「かういふ言葉づかひが大好きなやうな、軽薄な役人、ないし軽薄な御用学者にふさはしい文体で書いてある本」とケチョンケチョンに言う。
「娘たち」は、「娘ことばといふものがある。昔はこれが小説家の藝の見せどころだつたが(略)」で始まるんだが、現代作家は娘ことばを書きたがらない、それは今の娘ことばが風情がないからだという。
たとえば、為永春水の『梅ごよみ』では若い娘が別れるときに「ハイさやうなら」と言うんだが、今の女性は「ぢやあね」と言う、これは「耳で聞いてこそ楽しい台詞であつて、かうして字で書いてみると何とも趣がないことおびただしい」んで、別れの挨拶の場面を小説家は娘ことば使って書かず、「二人は駅で別れた」とか無愛想に書いちゃうんぢゃないかっていう。
「江戸明渡し」では、伊藤正雄という国文学者の指摘をあげて、「……してほしい」という言葉は元来は関西弁で、江戸っ子は「……してもらいたい」と言うもんだが、「してもらいたい」は何となく命令調でよろしくなく、「していただきたい」だと丁寧すぎるから、中間的な言い回しとして「してほしい」を使うようになることが戦後に流行ってるんぢゃないかっていうんだけど、それ関西弁だとは知らなかった。
「泣虫新聞」の項はおもしろくて、日本の新聞は、「事実はあまり書いてなくて、すこぶる一方的な意見と、それを塗りたくる多量の泪が今の日本の新聞の文体なのだ」と、「また泣いた庶民」とか「悲しみの一周忌」とかって見出しを格調が低くて下品だと一刀両断。
>つまり日本の新聞は概して言葉に対して無神経である。すくなくとも紙やインクに対するほどは、言葉に対して丁寧なあつかひをしてゐない。
とか、
>(略)大新聞の使命は国民に教養と識見を与へることで、国民をめそめそと泣かせることではない。
とかって厳しく弾じる、いつも丸谷さんは新聞に厳しい、いちばん厳しいのは文部省に対してだけど。
あと「最初の文体」の項では、絵本の文体がひどいって指摘してるんだけど、これは確かにって思わされた。
人生最初の文章は読んでもらう文章であり、親に読んでもらう絵本の文体は大事、それが意識に与える影響は大きいだろうという。
ところが、よくある絵本の文体は、「さあ、どうです、かはいいでせうと押売りしてゐるやうな文章」で、ただ甘ったるいだけなのは、「頭のなかにある観念的な子供に合せていい加減に文章をでつちあげてゐる」からだという、そういう部分はあるだろうなと思う。
この本はきっとときどき読み返すだろうな、言葉なんて乱れてくいっぽうだろうから、書いてあることちっとも古くならんという気がする。
(※2022年1月23日追記)本書の単行本は昭和49年刊行。
コンテンツは以下のとおり。
I 国語教科書批判
1 子供に詩を作らせるな
2 よい詩を読ませよう
3 中学生に恋愛詩を
4 文体を大事にしよう
5 子供の文章はのせるな
6 小学生にも文語文を
7 中学で漢文の初歩を
8 敬語は普遍的なもの
9 文学づくのはよさう
10 文部省にへつらふな
II 日本語のために
未来の日本語のために
将来の日本語のために
III 当節言葉づかひ
1 総理大臣の散文
2 娘たち
3 片仮名とローマ字で
4 江戸明渡し
5 敬語はむづかしい
6 電話の日本語
7 泣虫新聞
8 テレビとラジオ
9 最初の文体
10 タブーと言霊
11 字体の問題
12 日本語への関心