エドワード・D・ホック/小鷹信光編/木村二郎・他訳 二〇〇三年 ハヤカワミステリ文庫版
丸谷才一さんの随筆集『人形のBWH』で、マイケル・バー=ゾウハーの『エニグマ奇襲指令』の話から余談になって、
>とにかく、この、盗みへのあこがれのせいか、わたしは盗賊小説への関心が強い。エドワード・D・ホックの怪盗ニックものなんか愛読書である。(略)プールの水とか、おもちやの鼠とか、劇場の切符の半券とか、値打のないものを盗むことを二万ドルで引受ける。彼の書くものは、怪盗ニックものに限らず(略)、極端に童話的性格が強いミステリである。
>(略)たしかにアガサ・クリスチーには、人間の悪への関心とか、マイナスの側からの人間性の探求とか、さういふものは何もないね。一夕の好読物を提供できればそれで満足といふ態度で行つてゐる。
>その傾向をアガサ・クリスチーよりももつと徹底したのがホックで、彼はどうやら短篇小説専門らしいから、いよいようまくゆく。(『人形のBWH』p.45-46)
と紹介されてるとこがあって、気になったんで、怪盗ニックものを読んでみようと古本を買い求めた。
本書はもとは1976年に日本で独自に編纂された短篇集だそうだが、なんでもいいんだ、出版順とかこだわらないから、入門編らしくて。
怪盗ニックものが初めて雑誌掲載されたのは1966年だそうで、本書のある作品には「ウォーターゲート事件の二年後」みたいな記述もあって、そのころが舞台の話、いいねえ、スマホもSNSもない時代の話は好きだ。
そういえば主人公ニックは朝鮮戦争にも行ってたらしい、おお、それってスペンサーと一緒じゃん、と私なんかは思うんだが、どうもその後はトシをとらないようなのも一緒らしい。
>ニック・ヴェルヴェットは泥棒である。それも特別の種類の。
>彼は絶対に金を盗まず、自分のためにも盗まない。大きすぎたり、危険すぎたり、ほかの泥棒には異常すぎるものを人に依頼されて盗む。(p.14)
とか、
>泥棒として、ニック・ヴェルヴェットはユニークである。変わったもの、価値がないものを専門に盗むという定評がある。(p.42)
とか、
>「ぼくはガラクタしか盗まんことをあんたはのっけから頭に入れておくべきだな。高価な初版本だとか、宝石だとか、金銭だとかは、ぼくは盗まないことにしてるんでね」(p.92)
とか、
>ニックは表情を変えない。彼はただ言った。「料金は高いですよ。二万ドルです。盗むものは、ほとんど、あるいはまったく価値のないものときめています」(p.160)
とかって調子で、丸谷さんに教わったとおりである。
もちろん、一般的にはガラクタと思われるものでも、依頼者にはそれなりの盗んでほしい理由があるわけで、それが明らかになるところがおもしろい、どの話も短くまとまってて読んで楽しい。
斑のトラ The Theft of the Clouded Tiger
街の中にある動物園から“まだらの虎”と呼ばれている珍しい虎を盗んでほしい、三日後の月曜日の朝に。
真鍮の文字 The Theft of the Brazen Letters
イーストン河沿いのビルに電子工学企業がある、壁に会社の名前の金属製の文字があるので、そこから三つだけ盗んでほしい。
大リーグ盗難事件 The Theft of the Meager Beavers
カリブ海のハバリ共和国の要人が、プロの大リーグチームを二週間以内にわが国にとどけてくれ、チームの選択は任せるという。
カレンダー盗難事件 The Theft of the Coco Loot
連邦刑務所で服役中の男が監房の壁にかけているカレンダーを盗んでくれ、囚人は出所日を待ちながら日付に毎日、線を引いて消しているのだという。
青い回転木馬 The Theft of the Blue Horse
カナダ国境に近い河畔の大きな公園にある、ぽつんと孤立したメリーゴーラウンドのなかから、青色の馬を盗んでほしいと頼まれる。
恐竜の尾 The Theft of the Dinosaur's Tail
馬術クラブの会長で出版業を営む男が、マンハッタンの自然史博物館のティラノサウルス・レックスの完全な骨格標本から、尻尾の先の骨を二つ三つ盗んでほしいと依頼してくる。
陪審員を盗め The Theft of the Satin Jury
国じゅうで報じられている殺人事件の公判が行われている最中に、陪審員十二名と補欠一名全員を盗んでほしいと依頼され、ニックは「できなくはありません。身代金その他の営利目的でさえなければ」と答える。
皮張りの棺 The Theft of the Leather Coffin
カウボーイハットの男がニューヨークまでやってきて、テキサスの指折りの牧畜業者が事故で死んで翌々日が葬式だが、生前に彼が自分用にあつらえさせた、外側が皮張りの特別製の棺桶を盗んでくれという。
からっぽの部屋 The Theft from the Empty Room
入院中の男が、自分の弟の別荘の物置小屋にあるものを盗んでくれという、ところが何を盗むのか聞かされないうちに面会は打ち切られ、現場に行っても部屋はからっぽだった。
くもったフィルム The Theft of the Foggy Film
老年の俳優が、現在撮影中の映画でロサンジェルス空港で撮影をしたが、フィルムが技術的ミスでくもって撮り直しになった、そのくもったフィルムが処分される前に手に入れたいという。
カッコウ時計 The Theft of the Cuckoo Clock
ラス・ヴェガスのナイトクラブのコメディアンに呼び出され、クラブの経営者がもつもう一つのクラブの事務所の壁にカッコウ時計が掛かっているので盗んでほしい、価値はない、安物で時間さえ正確に合っていないんだという。
将軍の機密文書 The Theft of the General's Trash
ニックは休暇でワシントンに来たはずが、政治コラムニストに呼び出され、大統領の外務顧問である将軍のアパートメントから、毎朝将軍が出かける前に焼却シュートに投げ込むゴミ袋を盗んでくれと依頼される。