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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

世界を肯定する哲学

2022-06-28 19:25:22 | 読んだ本

保坂和志 二〇〇一年 ちくま新書
長年しまわれたままだったのを最近みつけた新書のひとつ。
第一刷を持ってんだけど、例によって自分が何を求めて当時この本を読もうとしたのか、まったくおぼえてない。
2001年ったら、二度目の関西に住んだときかあ、まあ、今よりはまじめに生きてた気はするが。
「はじめに」によれば、雑誌に一年間連載したエッセイを発表順に沿ってまとめたものということだが、ふつうのひとは9章から読みなさい、そうしないと5~8章あたりで挫折するかも、みたいに提案されてます。
最初に読んだときどうしたかおぼえてないが、今回読み直すにあたってはアタマから行った、あまり考えないんで、特に途中で止まるようなこともなかったけど。
それでも、むずかしいとは思った、よくまあお手軽なひまつぶし的傾向が多いと思われる新書文化のなかで、こういうの出版したねという気がするくらい。
9章くらいまでいくと、なに言いたいのか具体的になってくる感じがする、
>私たちは自分の色や柄の好みを完全に説明し尽くすことができないし、まして好みを自分の意志でガラリと入れ替えることもできない。私が「私」と思っているものは、私の意志によって操作できないものの集合体なのだ。(略)ただし、前もってことわっておくが、ここから私は「だから人間なんて小さいなものだ」というようなネガティヴな議論をはじめるつもりは毛頭ない。私が考えようとしていることは、むしろそれゆえに人間が自由になれる可能性があるということだ。(p.151-152)
という調子ですね。
で、結論としては、
>私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける。(p.232)
って太字で宣言されてるとおりってことになるんでしょう、世界ってのは自分の思惟の産物ぢゃあない。
そういう意味で世界を肯定するってのがタイトルの意味で、べつに現在の世界情勢をよしとしましょうとかいうわけぢゃない。
んー、なんで今の時代の今の場所に自分は生まれてきちゃったんだろう、とか、なぜ宇宙は我々が見ているような具合になっているのだろうか、そういう具合になっていなかったら我々はここに居合わせていないだろうからだ、みたいなこと考えたことあるひと、つい考えちゃうひとなら、読んでみてもいいかもしれません。
>人はただ生きている。生きているかぎり、何も感じず何も自覚せずに生きていることができる。(略)仕事をするにも遊ぶにも、それをしているという自覚なしにすることは不可能だけれど、生きているためには何も自覚はいらない。(略)文学はそういう状態を「平板」とか「間延びした」という言葉で否定的に形容したがるけれど、個々の生体にとって、自覚なしに「生きている」ことは幸福な状態である。「私が宇宙でない」ことと同じように、「自覚なしに『生きている』ことが幸福である」ということも絶対に忘れてはいけない。(p.121-122)
みたいなとこから出発しているので、べつにむずかしいこと考えないからダメみたいにはなんないでしょうが。
どうでもいいけど、今回読み直して、おっ、と私が思い出したのが、古代の建築物などの例をあげて、
>それらの技術や知識は当然、一世代で獲得されたわけではなくて、何世代にもわたって醸成されていった。それらの技術や知識は言葉で伝えられるのではなくて、その場に居合わせることによって伝えられて、少しずつ更新されていった。「徒弟制」として今でも残っている伝達の方法だ。現在のようなマニュアル化全盛時代には、徒弟制は非常に効率が悪いとされているけれど、マニュアルによって伝えられる技術はたかが知れていて、「その場に居合わせる」という方法によってしか伝えられない部分を持つのが、〈非宣言的記憶〉の特徴で、徒弟制は無文字社会の長い歴史の中で淘汰に耐えた合理的な伝達方法だったと私は思う。そういう技術の系譜に(たぶん)属する、現存するかぎりでの一番古い建造物が法隆寺の五重塔だ。(p.176)
っていう「技の記憶」の話、んー、当時、一子相伝とか自ら揶揄するような仕事のテクニックの伝承を引き継いで、自らのとこでそれをマニュアル文章化したりしたこともあったんだけど、そのときこれどこかに引用したなー、「俺たちのつくってんのは五重塔なんだぜ」みたいな、おもしろがって笑ってたのは私だけかもしれないけど。
章立ては以下のとおり。
第1章 そもそも人間はこの宇宙に存在しなかったのではないか
第2章 世界のモデルと視覚(1)――俯瞰と自己像
第3章 世界のモデルと視覚(2)――視覚イメージを持たない思考
第4章 「記憶の充足性」は思考によって浸食される
第5章 「私」はすべて言語というシステムに回収されうるか
第6章 「リアリティ」とそれに先立つもの
第7章 私が存在することの自明性について
第8章 いまの言語(思考法)とそうでない言語(思考法)
第9章 夢という、リアリティの源泉または〈寸断された世界〉の生
第10章 記憶は〈私〉のアイデンティティを保証するか
第11章 〈精神〉が書物の産物だとしたらインターネットの中で〈精神〉は……
第12章 生きる歓び

コメント
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