布袋寅泰 1994年 東芝EMI
こないだ「GUITARHYTHM II」を出してみて、ほかに何枚か布袋さんのものあったよな、と探してみた。
「GUITARHYTHM III」もあったんだけど、「III」にはこれって好きな曲がないようなので、順番飛ばして本日のところは「IV」。
でも、いま続けて聴いてみたら、ギターの音は「III」のほうが好きな気がする。直感なんで何がどこどうしてと説明はできないが。
1994年かあ、どこで何してたかなー、という気もするが、初めての関西住まいをした年だということは私のなかでは明確なんだけど。
そのときの風景とこのなかの曲が結びついてる記憶はないなあ、頻繁に聴いたのはもっと後のことぢゃなかろうか。
「さらば青春の光」とか「薔薇と雨」なんかがいいんだが、なぜかクルマのなかでよく聴いた記憶があって、その点でお気に入りは最後の「RUN BABY RUN」である。
高速走ってるときに、あとすこしだがんばろうってアクセル踏んぢゃうノリである、私にとっては。
1.TIME HAS COME
2.SERIOUS?
3.SURRENDER
4.薔薇と雨
5.気まぐれ天使
6.INTERMISSION
7.SIREN
8.OUTSIDER
9.さらば青春の光
10.ESCSPE
11.RUN BABY RUN
12.GUITARHYTHM FOREVER
先崎学 2002年 文藝春秋
このあいだ『摩訶不思議な棋士の脳』の記事を書いてるときに、そういやあ最初の『浮いたり沈んだり』について書いたのはいつだったけか、と思って、自分のブログんなか検索したんだが、無いんである。
ウソだあ、自分で信じられなかった、なんで無いの、それで何回ワード変えて検索してもホントになく、『まわり将棋は技術だ』と『山手線内回りのゲリラ』は採りあげてるのに、シリーズ第一巻たるのを落としている。
こりゃしまった、まあ、だいぶ以前の本だから、(ブログ始めたの2008年だし)そういうこともあるか、ぢゃ早速、と思って、探したんだけど、今度は本が見つからない。
ウソ、ありえないっしょ、と本棚あちこち探した、家具の裏とか下から綿ボコリが出てきちゃうくらい家探ししたんだが、とうとう見つけられなかった。
どうしたんだろう、まさか売ったともおもえないが、と自分が信じらんなくなって悩んでしまった。
落ち込んでもしょうがないので、街の古本屋に行ったら、均一棚にあったんで即買った。
手に取ってみれば、そうそう、表紙の色とか絵とかも鮮明に記憶ある、一時期愛読してたよな、って思う。ホントどこへやっちゃったのか。
さて中身は、「週刊文春」連載コラムの2000年10月~2002年4月ということで、その後長期にわたり続いたものの初期のもの。
もう二十年も前かー、とか改めて思ってしまうと月日の経つのの速さに驚いてしまう、え、まだ藤井聡太が産まれていないころのことか!?
著者先ちゃんは、2000年にA級八段に上がる、でも2002年3月には降級してしまった、あとがきには「沈めば、きっと浮く日がくると信じる事がいかに大切か」なんて書いている。
何度も読んだ内容は、やっぱりよくおぼえているものがあって、いま読み返しても感慨がある。
森雞二九段が対局中に控室に入ってきて、自分の盤面が映っているモニターに向かって「悪手を指せ」と声に出して相手に念力かけるような場面とか。
花村・芹沢戦の記録をとってたら、相手が席を立ってるあいだに「芹ちゃんのこの手はなっちゃいねえ」とか「なんだいこんな手は。花ちゃんも、もう歳だな、こうやられていたらまいっていたんだ」とか、批判しあう古き良き対局室の光景とか。
おなじみ郷田真隆九段が、携帯持ってないどころか、FAXが嫌いで原稿書いたらわざわざ編集部まで持参するようなことしてて、当然パソコンなんか持ってなくて、持つ気がないのか著者がきいたら、
>「パソコン? そんなものより大事なものは世の中にいくらでもある」(p.151)
って答えたという、私の好きなエピソードも本書のなかにあって懐かしかった。(羽生から棋聖を奪取した2001年の話。さすがに今は使ってるんぢゃないかと。)
それでも、いま読み返してみると、全般的に内容は将棋のことが多いなと感じる、その後時代が下がったほうが関係ない話題が増えたんぢゃないかという気がする。
観戦記を書くという立場でタイトル戦の現場へ行ったときのこと、その役目はいわば評論家だとしつつも、
>評論とは、感性の披露である。感性とは手持ちのカードのようなもので、出しているときはいくらでも出てきそうな気がするが、自分の残り札が少なくなっていることには、なかなか気が付かない。(略)
>皮膚に染み込んだ感性を言語に換えることには非常な困難さがつきまとう。不可能だといってもいい。言葉という表現を持った瞬間から、感性は色褪せてゆくからである。(p.58)
というようにその難しさを語る。
対局者の思考と心理を、自らの想像力を駆使して言語に翻訳するんだ、っていうんだけど、そういう心掛けを昔っから持っていた先崎九段の解説は、いまも(ただの手の解説にとどまらないから)おもしろい。
最近の(といっても本書の話は二十年前だけど)若手は生活権を尊重しあう常識ある人が増えてバクチなんかしないが、十年ぐらい前(ということは今からだと三十年前)はひどかった、って話の展開から、
>しかし、所詮は将棋指しなんてあっても無くても良い職業という、アウトローな気持を持つことは、勝つか負けるかだけの世界に生きる者にとって、大事なことだと思っている。そういう気持があるからこそ、将棋ファンを大事にできるのだとも思う。(p.47)
というとこに着地するんだけど、将棋界の位置というか未来というかってことについては、昔からけっこう真面目なんだなって再認識した。
鹿島茂 2007年 光文社知恵の森文庫版
これは、この秋に古本屋で見つけて買ったエッセイ集、前に読んだ著者の『セーラー服とエッフェル塔』がおもしろかったんで。
サブタイトルは「関係者以外立ち読み禁止」で、2003年の単行本のときはこのタイトルだったのを文庫で改題したんだそうだ。
著者あとがきにいわく「よくわからないタイトル」とのことだが、
>(略)エロだか哲学だか関連性がまったく摑めない(引用註←環境依存文字「掴めない」)ことをやっているのが私の文筆稼業なので、この新タイトルは、ある意味、私という人間の本質を衝いているのかもしれない。
といっているので、気に入ってるのかもしれない。
なお、2000年~2002年に「オール讀物」に連載していたときのタイトルは、「とは知らなんだ」だったらしい、ふーむ、私はそれがいちばん好きだな。
ちなみに、乳房については、
>乳房の大きさは時代の無意識を映す鏡なのである。(p.21)
を結論とする、古代では大きいのがよしとされ、文明が発達してローマ文化では小さいほうが称賛され、五世紀に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン民族においては大きいほうがプラスとされ、宮廷文化が発展する十二世紀になると特にフランスでは小さいほうが崇拝された、とかって文化論だ。
一方、サルトルについては、
>サルトルは甲殻類、貝類を食べないばかりか、植物も嫌いで、サラダは一切口にせず、果物もまた決して食べない。(略)「生(なま)」の、生命を持っているものは、植物だろうと、動物だろうと、すべて気味が悪く、激しい嫌悪感をそそるのである。(p.202)
みたいなエピソードを紹介して、自然に対しては嫌悪を感じおびえるのに対して、本とか言葉によってつくられた一種ヴァーチャルな世界に逃げ込んで生きようとした人だったんで、『嘔吐』って思想家の哲学小説ぢゃなく、引きこもりの私小説ぢゃないの、みたいな話だ。
というわけで、タイトルでひとくくりになってるけど、そこはべつべつの話。
私がおもしろいと思ったののひとつは、著者の奥さんと娘さんが、料理番組とかに出てる男性アナウンサーがいいと言ってるのをみて、人気のある理由がわかったと、
>(略)「おままごとをしてくれる男の子」だからである。男性原理に生きるマッチョ男たちには想像がつかないかもしれないが、女というのはいくつになっても「おままごとをしてくれる男の子」が大好きなのである。(p.68)
って指摘する話。
ただし、この選好ってのは、奥さんは「娘のお婿さんなら最高」、娘さんは「妹の旦那だったらベスト」と言うように、現実の自分のパートナーぢゃないレベルなので、世の男性は勘違いして「おままごとボーイ」を目指したりしてはいけない。
でも、この責任とかリスクを伴わない、好感度ってやつが、意外と政治家の人気なんかには影響してるんぢゃないかとか議論が発展するのがいい。
そんな男と女のことばっか題材にしてるかっていうと、そうでもない、いろんな国の文化の話とかあって興味深い。
たとえばインド人の買い物は価格交渉が常なのに、日本人は価格交渉をしない、定価で販売して価格以外のサービスで情緒的な満足をもたらす商法を発達させてしまった、その結果、交渉能力が欠如している。
>外交というのは、いわば、双方が歩みよって取引価格を決定する行為である。
>しかるに、定価に情緒的なオマケをつけて割り引くことしかできない日本人には、この価格の決定のプロセスがどうにも飲み込めない。一度掲げた定価は絶対に動かせないものと思い込み、あとは、こちらの立場を繰り返し述べて理解を請うということぐらしか方法を考えつかない。双方の条件提示と交渉次第で、定価など無意味になるということを理解しないのである。(p.130)
というように日本人の外交下手を論じるんだが、結論が、外交官試験合格者をインド商人に見習い奉公に行かせろ、っていうと冗談なのか本気なのかわからないのがいい。
オランダ人の項では、江戸幕府の鎖国のなかでなぜオランダだけ貿易を認められてたのか、日本側の事情だけぢゃなくて、オランダ人の国民性や思考法からも研究すべきだってところから始まるんだけど、
>ケチで、利に聡く、所有欲が強く、身勝手で、権利意識と自己主張は人一倍強い反面、自制心と公共の倫理観に欠け、怠け者で、責任感はゼロで自己正当化し、他人の悪口が大好きで、妬みっぽく、恩はすぐ忘れ、損害は一生忘れずしつこく言い募る。これらの(日本人から見れば)マイナスの性格は、フランス人というよりも、むしろオランダ人の専売特許のようである。(p.133-134)
と、自身の専攻の関係からか、世界で一番扱いにくいのはフランス人と思ってたが違うようだと言っている。
参考までに、これはすべて著者の意見というわけぢゃなくて、『物語 オランダ人』という別のひとの本読んだ感想なので注意。
イギリスとフランスの植民地政策の違いもおもしろい。
>イギリス人は植民地を獲得すると、まず港を造り、ついで鉄道と道路と運河を造って奥地の産地と結んで、生産物を運び出し、本国に送る。
>これに対し、フランス人も港を造ることまでは同じだが、次からが異なる。フランス人は道路、鉄道、運河などよりもまず町造りを優先する。(略)その結果、フランス植民地だった都市を歩くと、どこにもブールヴァールと呼ばれる環状通りがあり、リュクサンブール公園に似た公園があり、そしてなぜか凱旋門がある(たとえばラオスのビエンチャン)。次いで彼らは、現地の人間に教えるためのフランス語の学校を造る。(略)ようするに、フランスの植民地主義というのは、文化の輸出ばかりに熱心で、事物の収奪にはあまり向いていないのである。(p.211-212)
って解説なんだが、インフラ整備に熱を入れたイギリス植民地地域のほうが、マラリアとかの伝染病が人の移動に伴い広がりやすく、比較するとフランス植民地では感染地域を拡大することなかったという。
あと、ボルドーとブルゴーニュのワインの違いの由来について、五世紀の歴史から始まる文化圏の差であるとする話も勉強になる。
ゲルマン民族であるフランク族とブルグンド族が侵入した北側には、ゲルマンの法律や習慣の影響があって、土地財産を相続するときに子供たちに平等に分割してったから、農園が小さく分かれてった。
ボルドーは南側にあって、ローマ文化圏であり、親が生前に子供のうちから一人を選んで不動産のすべてを相続させることを決め、領地は分割されなかった、だからブドウ園は小さくならなかった。
っていうのは、とは知らなんだなんだが、まあ、いずれにせよ私はワインの違いもわからないけど、世界史ってのはこういうことも教えてくれればよかったのにとは思う。
コンテンツは以下のとおり。
I
巨乳vs.小乳
恋は結婚の後で
愛人は宦官
フランス人はなぜキスが好きか
白木屋ズロース伝説について
女子の高等教育は国を滅ぼす?!
おままごとボーイの謎
変化するオス
II
シェーンは帰らない
「ズッズー」の文明衝突
豚はなぜ軽蔑されるのか
インド人もビックリ
インド人に見習え
命よりも金が大事
猫のヘイ、カモン
カンブロンヌ将軍のひとこと
III
怪しい広告
お魚くわえたドラねこ
フリースの起源
バーガーとドッグ
マロニエの木の根っこの会
植民地主義とマラリア
ブラスリーと極右
ブルゴーニュならマイ・ワインを
ワイアット・アープの経済効果
ラーメンマンとサラリーマン