遠藤秀紀 二〇〇五年 ちくま新書
これは、忘れるくらい長く収納してたのを最近になって再発見した新書のひとつ。
2005年って、たぶん私はひどく忙しくしてたころだと思うが、なにを考えてこういう本を読もうと思ったのか、まったくおぼえていない。
著者は「博物館に生きる解剖学者」として、1995年に上野動物園で死んだパンダのフェイフェイの解剖をした。
そのときに、パンダがどのように笹をつかんでいるのか、それまでの通説をひっくりかえす発見をする。
パンダの手というか前肢の指は5本あるけど、クマなんで指の向きはみんな一緒、人間のように親指が他の指に向き合うような形ぢゃないので物はつかめない、でも親指の側の手首んとこに大きめな骨があるんで、それが笹とかをつかんで落とさない役割をしてるんだろう、ってのが従来の説。
ところが著者が解剖をしてみると、そのいわゆる「偽の親指」、正式名称・橈側種子骨は独立して動かせるものぢゃないことが判明。
「六本の指」で笹をつかんでるんぢゃなく、反対の小指側の手首にも大きな骨・副手根骨の突起があって、手首を折り曲げると五本の指と橈側種子骨と副手根骨とで筒状の形をつくって笹を落とさないように支えてる、ということがわかったと。
というのが、タイトルのパンダの死体ってことなんだろうが、たしかに生きてるパンダが笹食ってるのを目の前で見ててもメカニズムわかってなかったのに、死体を解剖したら、この指のようなものは動かないで親指にくっついてるだけじゃん、ってことわかったのは不思議な感じする。
でも、著者が言いたいのは、パンダの骨格の構造と動きとかってだけぢゃなくて、動物の遺体は解明されてない謎を多く含む知の宝庫なんだから、社会全体の財産として大事にしようよ、ってことらしい。
>ここで大切なことを強調しておこう。
>「遺体は全人類共有の財産である」ということだ。(p.38)
とか、
>「すべての遺体は学問に、文化に、そして人類の知に貢献する」
>それが私の信念である。遺体は絶対に捨ててはならないのだ。
とか熱く訴える。
それっていうのも、日本では大学が、
>(略)教授が定年退官すれば研究室を解体して次の教授がゼロから作り変えるというスクラップアンドビルドのシステムを採用してきたので、遺体は大学ではさっぱり大事にされずに捨てられるばかりになってきている。(略)
>(略)もちろん個別には洞察力の豊かな人物が教官を務めていて、標本資料の散逸を防いだという真に称えられる足跡も見られるのだが、一般的には大学とは先人のものを捨てるのが“得意”だ。(p.181-182)
って存在であり、また博物館についても、建てたはいいが収蔵や研究をちゃんとやっていないって、
>本来博物館とは、例えば遺体を集め、例えば学術資料を収集し、そこから人類の新たな叡智を獲得していく、文化や学問や教育の根幹を支える組織であるはずだ。それがわが国では公共事業や政治や行政の体の良い道具に化している。それは貧しさ以外の何物でもないだろう。(p.209)
と指摘するように、積年のうらみに近いようなものがあるからって感じられる。
ゾウのような大型動物の遺体を研究しながら骨にしていくのは金のかかる仕事で、100万円だとしたら大企業には小さな事業費かもしれないが研究者には大変で、でも先人たちから受け継いで自分も後世に残そうと努力するのが大事、
>遺体は必ず未来へ引き継がなくてはならない。遺体は遠い未来に、自分が生きていたときの真実を語り始める。そして彼らが語る真実は、人類の知にとって斬新な内容を無限に含んでいるものなのだ。(p.193)
という。
冒頭の章で、どうやってゾウを解剖するか、厚い皮膚に刃物がなかなか入っていかないとか、リアルな作業の描写あるが、そこんとこがパンダの指の話より私にはおもしろかったりする、やってみたいとかってわけぢゃないけど。
ほかにも、モグラやツチブタがどうやって穴を掘るか、センザンコウやオオアリクイがどうやってアリを食うか、体のつくりを研究して解説してくれたりするのもおもしろい。
第一章 息絶える巨象
第二章 パンダの指は語る
第三章 語り部の遺体たち
第四章 解剖学から遺体科学へ
きょう、とうとうスマホにした。
なにをそんなたいしたことでもないのに、と言われるかもしれないが、はじめてのスマホである、本人としてはついにきた感満載。
本日までのケータイだって丸9年使ってたからねえ、今回お店のひとに「この機種、ひさしぶりに見たかも」みたいな、珍獣のように見られてしまったっぽい。
(ときどきケータイショップのひとと話すと、ケータイとかガラケーとか言わず、「3Gは」みたいなボキャブラリー使われたりするが、私にはなんのことだか通じません。)
去年の11月ころだっけ、ケータイからホームページ見るとかってことができなくなって(その前から各企業は順次撤退してたが)、さすがに不便だからスマホにするんだろうと自分でも思ってたんだけど、意外と不便しないのでそのままにしてた、以前は移動中に乗り継ぎ調べたりして、一本前の新幹線とか飛行機とかに予約変更して飛び乗ったりとか使ってたんだけど、いまそういう生活ぢゃないしねえ。
しばらく前から、ケータイの会社からは、「二つ折りケータイお持ちの方へ」とか、「修理が終了します」とか、おらおら早く手持ちのものを出して投降しなさい、みたいな脅しのようなお手紙は来るようになってたんだけど、私はなんとも思わず。
それでも、今年に入ってからくらいかな、充電ケーブル突っ込むところの蓋になってるパーツが劣化して無くなっちゃったりして、こっから水でも入ったら機械パーかな、そろそろ換えるかなみたいに考え始めるようにはなったんだが。
そしたら、最近になって、今ならおトクにしまっせ、みたいな売りこみがきたりして、脅されても気づかない鈍い私も、安くするとか言われると反応しちゃうわけで、まあそういう「後押しボーン」でもないと腰をあげない私だが、こういう機に換えるかって気になった。
でも、最初行ってみたときには、くだんのキャンペーンの機種はいま在庫がありません、なんせ半導体不足なんで、みたいに一度は言われて、おいおい不動産広告のそれは売り切れちゃったけどこちらはいかがですか商法かなという気にもなったが、ちゃんと本日連絡きて、入荷したからどうですかといわれると、ぢゃあこの際だから機種変更しますよってこたえて、めでたく私もスマホユーザーになった。
んー、いろいろ使いそうなデータはバックアップしたつもりだったんだけど、新しいデバイスからはそれを読みこむことができないみたいな感じで、このあといろいろ研究はするつもりだけど、最終的には前のケータイの電源入れて画面みて必要なことは新しい端末に手入力していくことになるんだろうなという気はしてる。
(※5月13日付記 データコピーというアプリの復元という機能を使ったら、必要なものサルベージすることができました。スケジュールとメモがどこいっちゃったのかわかってなかったんだが、復元するデータとして指定して実行したら、ちゃんと元通りのものが新しい端末にも入りました。それから、なぜかメールが一部しか移行されてなかったんだけど、改めて受信メールも送信メールも復元させてみたら、全部戻りました。ふぅ。)
スマホもったからって、スマホでこのブログは書かないと思うよ、たぶん。
(※5月14日付記 どうでもいいけど、大きいよね、これ。縦15センチ横7センチくらい、どうやって持って歩くか、ちと検討が必要。ま、以前みたいに、ズボンのポケットに入れて馬に乗る、なんてことしないから、いいんだけど(笑))
丸谷才一 2012年 文春文庫版
最近やっと読んだ丸谷才一の随筆集、やっとっていうのは、いま調べたらこの古本の文庫買い求めたのは2019年10月だったようなので、なにやってんだか。
最近気づいたんだけど、丸谷さんの随筆はおもしろい本の紹介になってる要素が多いからねえ、人生広げる意味ぢゃあ、もっと早くとっくに読んどいたほうがよかった。
単行本は2009年刊行、初出は「オール讀物」2007年から2009年の連載だっていうんで、こないだ読んだ『双六で東海道』の続きかと思ったら、微妙に時期が空いてる、調べたらそのあいだに『月とメロン』が入るのが正解とわかった。
しかしねえ、その2006年から2008年くらいに、私は何をしてたものか、ちょこちょこ本は読んでいたようだけど、どうしてこういうものをリアルタイムで読んでなかったのか、人生の損失だ。
どうでもいいけど、さすがに2007年ともなると、丸谷さんの随筆のなかにも、
>ついでに知識(と言つたつてインターネットの百科事典『ウィキペディア』で得たもの)を披露すれば(略)(p.15)
なんてくだりが出てきたりする、え? 書物を読まないで検索で済ませちゃうことあるの、丸谷さんでも? なんて思ってしまう。
ほかにも、
>(略)といふ答を得るあたり、すばらしいインタヴュアー力(と何でも「力」をつける近頃の流行を利用する)。(p.196)
なんて当節流の言葉づかいを心得てたりする、もっとも丸谷さんは小説は風俗を重視すべしって主義なんで、流行とかには注意を払っているんだろう。
さて、なかみは、このシリーズは一篇ずつの長さに余裕があるせいなのか、あいかわらず「余談」とか「横道」とか言って本題から逸れそうなおもしろいエピソードを入れつつ、多彩なことを語ってくんだが、歴史上の人物・出来事をとりあげることもあるんだけど、どうしたって男と女との話題で盛り上がるパターンが多い気がする。
「『源氏物語』千年紀を祝ふ」と題されてて、どんなに難しい古典文学論がくるかと思いきや、中国の六朝時代と隋朝時代の色道の指南書が日本に伝わり、保存されていたって話が先にある。
平安時代に丹波康頼という漢方医がそれらを抜粋して『医心方』という本を編集した、それを、
>ここから考へると、『医心方』は道長の藏書中にあつた蓋然性がすこぶる高い。(略)
>とすれば紫式部も借りて読んだかもしれない。(略)もしさうだとすれば、光源氏は彼女の脳裡において、中国の色道に通暁した人物として思ひ描かれてゐたのではないか。さういふ設定でなかつたはずはない。このことが今まで言はれなかつたのは『源氏』学者たちの手抜かりであつた。(p.253-254)
と、とんでもない方向に展開する、でも、光源氏が中国伝来の秘伝のマニュアルから何を学んだのか、なんて視点で古典を読むようにしたら、高校生なんかはそれまでより異様に集中して国語の授業を聴くんぢゃないだろうか。
だって、そのあとの、浮舟はどうして薫大将ではなく匂宮を選ぶのかって話題でも、薫が味わわせなかったものを匂宮によって教えられたからだって解説になるんだもん、若い人でもぐっと古典が身近に感じられるに違いない。
「なぜ1001なのか」って章では、『アラビアン・ナイト』はなぜ「千一夜」であって「千夜」ではないのか、ってクイズを出して、ボルヘスの論じてる二説を紹介したりしながら、アメリカの作家ジョン・バースがエッセイで書いたという推理を披露してくれて、シェヘラザードは第一夜に受胎して第一子を第二六七夜に出産し、以降平均期間と間隔を計算して、物語の終わりまでに三人の王子を出産した、なんて日程表の作成の話になってく。
もちろん、そんなことばっかりぢゃなく、本業(?)である文章批評もあって、「わがミシュラン論」で「ミシュラン」の文章をやっつけてるのはおもしろい。
主語や目的語の上に、関係代名詞的接続のような長いものがのっかっているのが多く、わかりにくいうえに、「そのくせ情報それ自体は大したことない」という。
「読んでて厭になる下手な文章」とか、「ゴタゴタしてゐて、面倒くさくなるでせう」とか、「こんな文章では、とても出かける気にならない」とか、けちょんけちょんに言って、それに比べて文藝春秋の『東京いい店うまい店』の文章はうまいと引き合いに出す。
>(略)書いた当人だつて、あまりおもしろいと思はず、ただ紙面を埋めるため文字を連ねてゐるのだらう。これぢや読者が引きこまれるはず、ないぢやありませんか。
>そこへゆくと文春版は、読者に情報を提供しよう、実のあることを伝へようといふ気になつて書いてゐる。それがまともな態度です。(p.132)
と伝える中身があれば書こうという気力があり、伝える内容を持ってないと書く気もないのだと、了見の問題だという、いいねえ。
コンテンツは以下のとおり。
替唄考
娯楽としての戦争
戦国時代の心理学
木久蔵改メ木久扇
与太を飛ばす
わがミシュラン論
スクープ譚
星旗楼綺譚
朝日の「葉」のこと
ヘタウマの元祖
ロンメル戦記
『源氏物語』千年紀を祝ふ
荒木又右衛門
犬と人間
なぜ1001なのか
明治人物論
道鏡の口説き方
岡部幸雄 二〇〇六年 角川oneテーマ21新書
こないだ藤澤先生の本とかといっしょに長くしまって眠っていたのを発見した新書、やっぱ持ってたことすら忘れてた部類にはいる、すいません。
岡部さんは2005年に現役引退したんで、出版はその翌年ということになる、なぜにその時期にこういうタイトルのもの出したのかはわからないが。
ちなみに、角居調教師の著書のなかでは、
>(略)未勝利馬でも500万条件馬でも、1頭1頭、それはていねいにコメントをくれます。馬に対してのみならず、馬場入り後、手綱を放す際、馬を引っ張る厩務員に「こういうタイミングで放さなければいけない」など、一流の考え方を教えてもらいました。
>名ジョッキーの言葉が聞けるため、岡部騎手の騎乗には毎回のようについて回りました。(『挑戦!競馬革命』p.92)
と、その偉大さを称えられています。
「勝負勘」ってのは、字面でなんとなく雰囲気はわかるが、あまり聞きなれない言葉であるような気がする。
>勝敗を分ける「勝負勘」とは何か、といえば、「直感」が占めている部分が大きいはずだ。
>レース中、どの場面で細心の騎乗を心がけ、どの場面で大胆な騎乗に打って出るのか。
>そうした判断も勝敗を分けるポイントになってくるものだが、それだけではない。
>(略)実際のレースにおいては、スタートからゴールまでのあいだに次々と勝負の選択肢が差し出されてくる。
>(略)そうした際には、ただ目の前の状況だけで判断するのではなく、「先を読む姿勢」も求められてくる。(略)
>そんなひとつひとつの局面で、自分がとるべき策を選択していくことが、競馬における勝負勘だといえるだろう。(p.22-23)
ということらしい。
競走中は次々と選択肢が突きつけられても、考える余裕はないので、一瞬の判断が求められる、だから勘という言葉を使ってしまってるんぢゃないかと。
あとからゆっくり振り返れば、あそこではこうこうこうだからこうしたって理屈の説明はできる類の選択なんだけど、レース中はそれは勘といえちゃうレベルのスピードではたらかせていると。
その勘をつくりあげるものについては、
>勝負勘を育てるのは経験である。(p.179)
とズバッと言ってます。
>外国人騎手や地方競馬の所属騎手が好成績を挙げていることに対しては、「馬を追う技術が高い」などと評価する声も聞かれるが、そうした技術の差より大きいのは経験である。
>馬を追うのにしても腕力というのはほとんど関係がなく、それよりはむしろ、いかに腕力に頼らずに馬を走る気にさせるかが問われるものなので、そういうところでも経験が活きてくるのである。(p.178)
と当時の状況についても触れたうえで、ケント・デザーモ騎手は19歳のころは一年間ほとんど昼夜かけもちでレースに乗っていて、西海岸でのトップに駆け上がったという例もあげ、
>こうして経験を積み上げていけば、局面ごとに脳に送られてくる信号の質がそれだけ高いものになるのは当然だろう。(p.179)
という、ご自身が生まれつきの直感をもってるようないわゆる天才型ではなかったという話もしながらの、そういう結論にいきつく。
どうでもいいけど、ときどきトップクラスのジョッキーの騎乗で驚かされるのは、なんかレースを俯瞰してるみたいなとこあることなんだよね、視界に入っていないはずの後ろのほうの他馬の動きまで見えているかのように仕掛けたり、あれはなぜできるんだろうと不思議。サッカー選手でピッチを俯瞰できるひとがいると聞くのでその類かと。
さて、岡部さんといえばルドルフなんだけど、もちろん本書でも一章がさかれています、有名なダービーで動こうとうながしてもルドルフがまだだって動かなかった話とか。
あと、岡部さんといえば「馬、優先主義」なんだけど、それは毎年のようにアメリカに行くうちに理解できたという。
>馬にとっていいことならどんなことでも行い、悪いことはいっさいやらないという姿勢は随所に見て取れる。アメリカでは馬の状態を何よりも優先させているのである。(略)
>どちらが上でどちらが下といった発想などはまったく持たず、自分がしてもらったら嬉しいだろうということを馬に行い、自分がされたら嫌だろうということは絶対にしない。
>そんな様子を間近で見てきたために、私は「馬、優先主義」の気持ちを強くしたのだ。(p.147)
だそうです。
コンテンツは以下のとおり。
第一章 勝負勘と、情報のコントロール
1 勝つための方法
2 勝負の世界における情報の意味
第二章 運と転機
1 必ず迎える「転機」
2 ビジネスと、妥協なき選択
第三章 忍耐とステップアップ
1 ゼロからの出発
2 焦らない「自然体の歩み」
第四章 育成術と、勇気ある決断
1 トータルとしての結果を考える
2 「やめる決断」と「馬、優先主義」
第五章 周囲の力と、発想の転換
1 組織のあり方と、日陰の存在
2 人と違うことをやる!
第六章 勝つ秘訣と、集中力
1 コミュニケーション能力と、敵ある戦い
2 勝負勘は、誰でも手に入れられる
終章 第二の人生
1 引退と、その後の選択
2 人生、テイク・イット・イージー
RCサクセション オリジナルは1983年 いま持ってるCDは1992年 東芝EMI
さあキヨシローを聴こう。
このライブアルバムをここにとりあげてなかったとは、自分でも意外だった、たぶん昔に同じ年の武道館のビデオをとりあげたんで、出した気になってたのかも。
これは1983年夏のツアーの渋谷公会堂ライヴを収録した2枚組。
このときのライヴは観に行ったんだよね、私の行ったのは渋谷ぢゃなくて、たしか新宿厚生年金だったけど、まあやった曲はほぼ一緒のはず。
(アンコールの最後にスローバラードやったんぢゃなかったかなあ、ちがったかなあ。)
アルバム『OK』を出したときで、そこからの曲が多かったんだけど、こっちは新しい曲知らなくて(発売前だったかも)、ちと戸惑ったように記憶してる。
ファン歴浅いころってね、バリバリのヒットナンバーとか定番の名曲とか聴きたがるんだけど、いまなら未発表のとかやってくれたほうがおトクに感じられるように成長したとは思う。
当然のことながら、いま聴いても、とてもいいですね。あの時代はよかった。
Disc 1
1.ドカドカうるさいR&Rバンド
2.雨あがりの夜空に
3.Drive My Car
4.お墓
5.ねむれないTonight
6.ダンスパーティー
7.NEW SONG
Disc 2
1.たとえばこんなラヴ・ソング
2.Oh! Baby
3.誰かがBedで眠ってる
4.ブルドッグ
5.Sweet Soul Music ~ I've Been Loving You Too Long
6.指輪をはめたい
ツアーのポスターは、いまでも私の部屋の壁を飾ってたりする。