kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

一秒をけずりだせ

2014-01-04 | 陸上競技
話の続き。力があるという部分から少しつなげて話をしました。

タイトルに書いたように「一秒をけずりだせ」という話です。昨日行われた箱根駅伝の優勝校の東洋大学駅伝部のスローガン。これは2011年に東洋大学が21秒差で2位となった時からのテーマだという話でした。今回の駅伝では選手の腕や手の甲に書いてありました。全員が「想い」を持ってレースに臨んだ結果なのだと思います。「勝てるだろう」と周りから言われて臨んだ大会で1位と21秒差で負けて2位。11時間近く走り続けてたった21秒の差で負けてしまう。これが現実です。その時の監督の言葉が「全員が2秒ずつ速く走っていたら勝っていた」という辛い現実を突きつけるもの。全員が負けて悔しいと思っている。感傷的になっていた部分もあるでしょう。しかし、それだけではチームは前に進まないのです。「一人が2秒ずつ速く走ったら勝っていた」という現実を示すことで「あと少しの努力で勝てるものを逃しているのだ」と分からせたかったのだと思います。駅伝は一人一人走力の積み重ねです。誰か一人のスーパースターがいたとしても他のメンバーがきちんと走れなかったらその力は打ち消されてしまうのです。全員が「自分が1秒をけずりだして他の者のために貯金を作るのだ」という意識を持つことで最大限の努力ができる。

自分のやっていることが自分のためだけではなくみんなの結果につながっていくのだという意識を持つ。苦しい時でも辛い時でも自分のためだけにやるのではなく「自分が強くなれば1秒をけずりだせる」という大きな目標につながっているのだと思えば最大限の努力ができるのです。その「1秒のために」という意識で取り組むことで大きなレベルアップにつながり結果的に1秒どころか大きな力を生み出すのです。

リレーも同じです。誰か一人が速くても4人の力を合わせた結果がリレーなのです。バトンを失敗したり、スピードに乗り切れなかったらそこで終わり。0.01秒でもフィニッシュで遅れてしまえば負けなのです。1cmでも遅れたらそこで終わり。走る選手は他の者のためにほんの少しでも速く走ろうという想いが必要になるのです。本当にそう思えば1cmどころか1mの貯金ができる走りをするかもしれない。一人が0.01秒速く走れば4人で0.04秒。このほんの少しの差で勝つこともあれば負けることもある。

フィニッシュで0.01秒負けたとしたらやはりアンカーが責任を感じてしまうでしょう。また、バトンが一回で入らなくて0.01秒差で負けてしまったらそこの部分で選手が責任を感じてしまう。そうではなく「全員で貯金を作る」という感覚が必要なのだと思います。勝つのも負けるのも「全員の力」なのです。誰かが速かったから勝ったというのでは面白くない。ミスをした時の責任を誰かに押し付けてしまう事と大差ないのですから。全員の力で勝ち取る方が良い。そのためには各自が「自分にできることを精一杯やる」という考え方を持ってもらいたい。

苦しい練習の時に「ここを乗り越えたら0.01秒がけずりだせる」と思えば自分の力以上のものが出せるかもしれない。一人だと諦めてしまうことでも自分がやり切らないと周りに迷惑をかけてしまうかもしれないと思うことで自分の力以上のモノが引き出せるかもしれないし、最後まで頑張り切れるかもしれない。この考え方は「当たり前」なのですがなかなか浸透しにくい部分かもしれません。

そんな話をしました。もちろんここまで詳しくは話してはいません。blogを選手が読んでくれるだろうと信じて簡単な話をして、こちらで補足するという感じでしょうか。話はします、
断片的な話しになるかもしれませんし、話をしつこくしてもなかなか言葉が入らないこともあるでしょう。そのためにこのblogを利用したいと思っています。読み返すことで多少は伝わるかもしれないという期待をしています。

練習内容を書きたいのですが書きたいことが多すぎてなかなかたどりつけません。また別に書きます。
コメント (4)
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話をする

2014-01-04 | 陸上競技
土曜日の練習の最初に話をしました。月曜日から合宿なのでそこに向けての話をしておきたかったので。ここは他の人には分かってもらえない部分かもしれませんが。

夏の合宿時、かなり思うことがありました。練習中に返事がない、声が出ないという状態を見て「誰のための練習なのか?一番一生懸命になっているのは先生ではないか?」と選手に叱責されました。これまでこのようなことはありませんでした。我々の中ではこのような状況であれば今後合宿を行う必要はないのではという所まで話が行きました。学校によってはかなりの人数が部活を辞めていったようです。「意識の差」があってそれを埋めることができない状態だったのです。実際うちでもそれに付随するような行動が見られました。チームとしてどうなのか?ということが重なり県新人前に「指導する必要はないのでは?」と話をしました。

時間を守る、使わせてもらっている施設を大切に扱うという「当たり前」のことができないというのはやはり問題です。「当たり前のことを当たり前にやる」とうのを大切にしたいと言い続けていますがここができないようなら「全ては押し付け」でしかないと思います。難しいことを求めるのではなく基本的なことを求めているだけですから。「やればできる」ことは意識してきちんとやらなければいけないと思います。このような話をするのはお互い面白くありません。それでも話さなければいけないと思っています。最終確認です。今回の合宿で返事ができない、周囲に気を配ることができないという状況があったらさすがに指導する事から距離を置くと伝えました。「やればできることをやらないというのをそろそろやめなければいけない」のです。この合宿の持つ意味を考えてもらいたい。

他のどの合宿と比べても指導のレベルは高いと思います。そこで技術的な指導をきちんと受けられれば確実に強くなれると思います。私自身最大の信頼を置いている指導者が集まって行う合宿です。どうでもいい基本的な指導をされるようでは時間もお金ももったいないと思います。本当に強くなりたいと思うのであればこの機会を逃してはいけないはずです。

うちの今のチーム、県を代表する走力があるチームです。トップレベルの選手が2人いてその選手を中心にリレーで全国を目指して戦うという実力があります。そのようなチームが合宿で基本的な事を指導されているようでは絶対に次のレベルには進みません。当たり前のことを当たり前にやる。そこが出来て初めて指導を受ける意味がある。中心となるべきチームが足を引っ張るようでは合宿自体の意味がなくなってしまいます。下手をすると次回から合宿がなくなってしまう可能性もあるのです。

私もそれなりの覚悟を持つ必要があると思います。出来て当たり前のことができないようであれば私の指導は必要とされていないと判断をすべきかなとと。難しいことを求めているわけではなく「時間を守る」「返事をする」「周りに気を配る」「挨拶をする」というもっとも基本的な事だけを求めているのです。そこを求めるのが悪いというのであればこれ以上のエネルギーを使う必要はないと思います。冷たいでしょうか?

強いチームには責任が伴っている。自分達が思っている以上にうちのチームは注目を集めているのです。そこの自覚を持たなければいけない。普通に練習するだけで認めてもらえるレベルではないのです。そこは絶対に忘れてはいけないことです。今回の合宿がどれだけ自分たちにとってプラスになるのかを冷静に考える必要があると思います。本当に少しの事が出来なくて損をするというのは絶対に避けなければいけません。

うちの選手には大きな可能性を秘めています。その力を引き出せるかどうかは最終的には自分自身の「取り組みに対する想い」の部分です。一人一人が力を引き出すことができれば大きな夢に向かって進むことが出来る。そこを各自が心に刻んで欲しいと思って話をしました。伝わったでしょうか?

本当はこんなに長くは話してはいません。もう少し端的に話をしています。その補足として書いているだけです。選手が読み直して確認ができればと思います。合宿の持つ意味を自分たちの中で再確認してもらえたらと思います。

またも長くなりました。うーん、練習について書こうとしているのですがなかなかそこまで届かないですね~(笑)。また書きます。お許しを。

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選択をする

2014-01-04 | 陸上競技
土曜日、この日は一日練習を予定していました。今年は今までの甘い部分を自分自身打破しないといけないと思っています。練習負荷を高くして選手が辛そうにしている姿を見るとどうしても妥協してしまう自分自身を変えないといけない。選手云々ではなく私自身の「やり抜く」という気持ちが弱まっているというのがあったのでそこを超えないといけません。

理想として「選手が自分達で自分達のためにやる」というのがあります。ここ数年そこを追い求めていました。どんなに辛くても自分が強くなるためならどこまでもやる!!という強い気持ちがあるから「強い選手」になれるんだと信じている部分がありました。「そんなの当たり前」だと言われるかもしれません。が、実際はなかなかそうはいかないのです。「強くなりたい」という気持ちを持ちながらも「練習がキツい」「できれば楽に強くなりたい」という気持ちが同時に存在するのです。そこを理解した上で選手と向き合わないといけないんだろうなと感じています。逆にこういう感覚が一般的なのかもしれません。苦しかったら苦しい、嫌だったら嫌だという感情を抑えられない。それでも強くなるためにはやるしかないからやる。そこを指導する側が理解してやらないと物事は進まないのではないかと感じています。地味な葛藤です(笑)。

いつも師匠からは「自分が競技者として厳しく取り組んできた者は頑張れない選手の気持ちが分からない」と言われ続けてきました。「頑張る」「やり抜く」のが自分の中で当たり前の感覚として存在していて「楽をしたい」「キツイ練習は嫌だ」と感じる感覚が分からないだろうという意味です。現役時代の感覚が自分の感覚として当たり前として存在し、その感覚を誰もが当たり前として持っているという感覚なのだという錯覚をしてしまうのです。

世の中は「選択」を求められる場面がほとんどです。テスト前にどうしても見たいテレビがある。一時的な欲求を満たすために「テレビを見る」のかテストに備えて「勉強をする」という二つのうち一つを選択しなければいけません。本来なら「勉強をする」のが当然選ばれる選択肢なのですが一時的な欲求に負けてしまい「テレビを見る」という選択をする人もいる。あとで後悔することになるのですが「目の前の欲求」に勝てないという場面は様々な所で発生するのです。

うちの選手、「強くなりたい」「勝ちたい」という気持ちは大きいと信じています。そうでなければうちに来て陸上をやろうという気にはならないでしょう。しかし、それでもなかなか追い込むことはできません。かなり負荷をかけているのですが「自主的に最大負荷をかける」というのはできません。当然なのです。そこを私自身が理解し切れていなかったのかなと思っています。頑張りたいけどなかなか頑張りきれない、目の前の練習に対して「嫌だな」という気持ちが生じてしまう。それを理解した上で「やり抜く」ことをさせないといけないと感じています。

繰り返しになりますが「苦しそうに走るのはかわいそう」というのは今も昔も変わらないのです。年末に卒業生と話をした時に「走り込みをした後に最後の追い込みで40秒走をやった。その時私とAが倒れていたら先生に腕を引っ張られて立たされ、もう一本行けと言われて泣きそうだった。」と言っていました。あまりにも不甲斐ない走りだったのでそう言ったようです。時には「心を鬼にする」というのも必要。絶対に外せないタイミングというのがあると思います。さすがの私も150mでヘロヘロになっていてさらに40秒走をやり、まだまだ走らせるというのはよ程の事がない限りはないはずです。この時、自分から走りますとは絶対に言わないでしょうからね(笑)。

今のチーム状態からすればそこまでの走り込みや精神的に負荷をかける必要はないと思っています。勝ちたいという欲求は他の学校よりも大きいはずです。上で戦いたいという気持ちは昨年の悔しさや喜びの中で感じている。あとはこちらがそこを上手く引き出していく事が大切なのかなと感じています。選手を個々に見ていくと本当に力があります。強くなりたいという気持ちも大きい。指導する側の責任も大きいと思います。やらなければいけません。

練習について書こうと思っていたにも関わらず、書き始めたら全く違う内容になってしまいました。また別に書きます(笑)。

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